「私は最悪」(2021)
作品概要
- 監督:ヨアキム・トリアー
- 脚本:エスキル・フォクト、ヨアキム・トリアー
- 製作:アンドレア・ベレンセン・オットマー、トマス・ロブサム
- 製作総指揮:ダイベック・ビョルクリー・グレーバー、トム・キーセス
- 音楽:オーラ・フロッタム
- 撮影:カスパー・アンデルセン
- 編集:オリビエ・ブッジ・クーテ
- 出演:レナーテ・レインスヴェ、アンデルシュ・ダニエルセン・リー、ヘルベルト・ノルドルム 他
「テルマ」で戦慄の超能力ホラーをカミングエイジの物語に見事融合させたヨアキム・トリアー監督が、ノルウェーのオスロで30歳を迎えながら自分自身に迷う女性の恋愛模様を描くロマンスコメディ。
主演は監督の「オスロ、8月31日」で端役を演じていたレナーテ・レインスヴェ。今作にて彼女は初めて映画主演を果たします。
その他主人公の恋人となる男性役には、今年はミア・ハンセン・ラヴ監督の「ベルイマン島にて」に出演していたアンデルシュ・ダニエルセン・リー。
そしてコメディ畑で活躍しているヘルベルト・ノルドルム。
今作はトリアー監督の「リプライズ」そして「オスロ、8月31日」に続いてのオスロ3部作らしいです。未見なので関連性があるのかないのか分かりませんが。
カンヌでコンペにてプレミア上映され、レナーテが女優賞を獲得。アカデミー賞では外国語映画賞と脚本賞にノミネートしています。
批評筋の評判の高さは聞いていて、あとタイトルが、「世界で最悪の人間」ということで変に注目を持っていました。邦題は「私」としてしまって限定的にも感じますがまあいいでしょう。
後悔も楽しみで、早速週末に観に行ってきました。公開規模がそこまで大きくないみたいですが、都内や地元ではまあ見る機会があってよかったです。
土曜日の夕方で、小さなスクリーンでも空いていると思うくらい人は少なかったですね。若い女性がペアとか一人で観に来ているのが多かったです。
~あらすじ~
25歳すぎのユリヤ。成績優秀で外科医学を専攻していた彼女であったが、人体よりも人の内面に触れたいと心理学へ転向。
さらには洞察を学びたいと写真家にキャリアを変える。
いろいろと試しつつも自分自身が何者かわからない彼女は、パーティでグラフィックノベルのアーティストアクセルに出会う。
40代の彼はユリアとの将来を考えており、親戚にあったりもするがユリアは結婚や子どもをまだ先延ばしにしたいという思いがあった。
ある時、ユリアは通りかかったパーティに勝手に入り込み、酒を飲み食事してテキトーに楽しんでいた。
するとそこで同年代くらいの若い男性アイヴィンに出会う。
互いにパートナーがいることを明かしながらも、”どこまでがOKで、どこからが浮気なのか?”とふざけつつも遊び始める。
自分自身のしたいこと、なりたいもの。すべてがあいまいで迷うユリアは、今度こそこれだという人生をつかもうともがく。
感想/レビュー
実際に暮らし生きている人物
実際にトリアー監督の作品は前作になっている2017年の「テルマ」しか見たことがなく、今作の主演でもあるレナーテ・レインスヴェの出演作も観たことがありませんでした。
アンデルシュ・ダニエルセン・リーは「ベルイマン島にて」で観てはいましたけど。なので自分としては結構、普通の人が出ている感じというのがありました。
決して華がないというわけではないです。むしろ、ハリウッド大スターなどが体現してしまっては興ざめするような題材だからこそ、この俳優陣がくれる生きている人間の鼓動が必要だったと思います。
演者はみな素晴らしかったと思います。
アクセルやアイヴィンにある安定や役割のちょっとした抑圧のような部分とか、これらにはトリアー監督自身の経験が投影されているとのことですが、とてもリアルで。
それぞれを実際にオスロに暮らしているような感触で演じて見せた二人は素敵です。
ヘルベルト・ノルドルムのちょっと少年的な感じとかすごく好きですね。
幼稚でふらつく、自由を抜けて自由になりたい現代の女性
そして多くの映画祭や賞で絶賛されている主人公レナーテ・レインスヴェ。
彼女の深みが今作には欠かせません。
ミレニアル世代のとにかくふわついた感じとか、優柔不断にも思えれば一方で環境に打ちのめされているような。
自由であるという拘束からさらに自由になろうとする一人の女性を素晴らしい形で見せています。
彼女自身の表情に写る、ただ一言では言えない複雑さが、眺めているだけで好きでした。
彼女にもまた、アイヴィンのようなある種の子どもっぽさがありますしね。
現代のロマコメ×現代のカミングエイジ
その幼稚さというのも大切です。
今作はいわゆる大人に分類されながらも、まだまだ大人になり切れていない女性の物語。
そのカミングエイジの文脈に、ちょっとファンタジックさすらある昔からのロマコメの物語が交差する形になっています。
ユリアは非常に優秀です。選択肢も多い。だからこそ飽和状態で困っている。
ミレニアル世代に限定こそしませんが、選べるという悩みが彼女を追い詰めているように感じます。
ある種の限定的な将来像であれば、それに反抗し外を目指すというプロットもありますが、今作で描かれているのはその逆。
膨大な情報量や選択肢、押し出される自由のせいで逆に閉塞感を感じている世代。
そしてそんな自身を定義するプロセスと同時に、やはり社会または自らが意識してしまっている、立派な大人や安定の像に板挟みにされている女性。
圧倒的面倒くささに共感
そんな複雑で多層的、多面的なユリアを見ているのは、時に応援したくなり、時にイラッとしたり。
自分自身が何を求めているのか分からないけれど、でも嫌なことは分かってる。
身勝手さと捉えられても仕方ないのかもしれないですが、私はこの圧倒的面倒くささが最高に好きです。
このユリアを囲む環境の抑圧も結構共感してしまうからでしょう。
自己の確立はまだですが、スマホ依存的なことや、情報が多いこと、決してそれを差別的に言っているわけではなくとも、”今の若い世代は、デジタルで・・・”とくくられて話される違和感とイラつきは分かります。
常に自由でいたいけど、心の底では家庭を築いたり安定を求め、求められていることは分かる。
結局のところ両立はしないのに、それが実現できると模索してしまう。
白眉は中盤のアイヴィンに会いに行くシーン。
全てが、自分と好きな人以外の全てが静止し、駆け抜けていく。
オスロの街並み自体美しくありますが、実際に人間は止まっていて自然は躍動するあのシーンの底抜けの解放感は最高です。
まさに、今その瞬間を生きて、それが輝かしい。
どれもが必要なチャプター
今作の構成は小説調です。序章があったり章立てになって進んでいきます。短いのもあれば長いのもあったり。
正直最初はあまり理解できませんでした。
というのも章によって不要そうなものもあったり、また帰結していく点が一つの物語としては微妙に思えたのです。
しかしそれで良かった。
これはユリアの脳内といっても良いと思うのです。
彼女自身が自分の人生を小説のようにとらえ、ドラマチックな展開や最後のハッピーエンドを期待している。
それを投影しながらも、人生は結局こんなもの、こうなるものという在り方を見せていくからです。
小説が理想ならば、人生をそれに落とし込んでも現実は現実です。
思うように上手くいかないし、ドラマチックな展開が来ないこともある。
ただトリアー監督はそれを含めてユリアの人生を章立てにした。
それでいいからです。
何も成し遂げないという人生の肯定
その中に不要な章はないし、すべてがユリアの一部だからです。
最終幕に拍子抜けしてしまう人もいるでしょう。しかし私は清々しかった。
このオチでこの物語は完成していて、行きつく先が肯定された気がしたのです。ドラマチックでもないし綺麗な終わり方でもない。
いわゆるフィクショナルな物語としては不完全なのかもしれません。
でも、自分自身の人生が決して”小説”のように華々しくなくても、やはりその人生の主人公は自分で、自分が生きている人生はそれで良い。
だから最後はとても清々しくて解放された気になりました。
ヨアキム・トリアー監督はトーンチェンジも交えて、おもしろくイラついて悲しくてうれしくて美しい物語を見せてくれました。
人を選ぶと思います。面白味がないとかユリアに全然共感できない方もいるでしょう。
ただ刺さる人にはすごくくる映画だと思います。
それはご自身で確かめてみましょう。
というところで今回の感想は以上。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
ではまた。
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