「幸福なラザロ」(2018)
- 監督:アリーチェ・ロルバケル
- 脚本:アリーチェ・ロルバケル
- 製作:カルロ・クレスト=ディナ、ティツィアーナ・ソウダーニ、アレクサンドラ・エノクシベール、グレゴリー・ガヨス、アルチュール・ハレロー、ピエール=フランソワ・ピエト、ミヒェル・メルクト、ミヒャエル・ベバー、ビオラ・フーゲン
- 音楽:ピエロ・クルチッティ
- 撮影:エレーヌ・ルバール
- 編集:ネリー・ケティエ
- 衣装:ロレダーナ・ブシェーミ
- 出演:アドリアーノ・タルディオーロ、アニェーゼ・グラツィアーニ、アルバ・ロルバケル、ルカ・チコバーニ、トンマーゾ・ラーニョ 他
カンヌにてグランプリを受賞した「夏をゆく人々」のアリーチェ・ロルバケル監督が、聖人ラザロと同じ名前の青年を描くドラマ映画。
今作はカンヌにて脚本賞を受賞。
今作はイタリアで実際に起きた詐欺事件を元に、宗教的な要素を入れ込んだ内容となっています。
個人的に詐欺事件のことは全く、そして聖人ラザロはざっくりとした知識しかない状態。それでもかなり楽しめる作品でしたね。
地元の映画館にGW中に行って観てきたのですが人はある程度いました。若い人が来てないのは相変わらずでしたが。
イタリアの農村。小作人たちは毎日せっせと働き、その収穫を地主に収め貧しく暮らしていた。
その小作人の中に、ラザロという青年がおり、おとなしく底抜けにお人好しな性格もあって、何かと村人に雑用や仕事を押し付けられるも、文句ひとつ言わず働いていた。
あるとき、地主の一人息子であるタンクレディと知り合ったラザロ。彼はタンクレディの狂言誘拐計画に協力するように頼まれる。
2人は全く身分が違うのだが、兄弟のような友好関係を築き、偽の誘拐事件を引き起こすのだった。
先にも書きましたけれど、ラザロとか復活とか予備知識はあんまりなくても楽しめる作品です。その点はご安心を。
そして観終わってからの感想というか、気持ちですが、心が落ち着きません。
本当にとても不思議なものを観て、ただそこに描かれた何かを全てしっかりと掴んだ気がしないのです。しかも、その何かは人として絶対に気づいて離してはいけないものの気がするので余計にソワソワします。
それはおそらくですが、イノセンス(無垢さ)かと思います。奇跡や聖なる兆しかもしれません。
まずもって、主人公を演じるアドリアーノ・タルディオーロくんのこの無垢な顔ですよ。よくこんな人のよさそうな、感情のない優しい顔の俳優いますね。
彼がクリっとした目でなんの疑いもなく人と接して、他者のために行動する様を見ていても、直接関係ないのに罪悪感を感じます。
どこかしらでこういう人への搾取的行為を働いているかもしれない自分が恥ずかしく思えます。
そして同時に、小作人たちのように搾取されている側であることも、当事者からずれたこのラザロの視点により思い出されるのです。
彼は聖なる愚者であります。
ラザロというある意味では支配特権階級層でも被搾取の側でもない視点から、その関係性をあぶりだしていく。
ラザロは狼たち(支配者、捕食者)から鶏や羊を守るように言いつけられます。
ラザロだって、いわゆる羊にあたる小作人たちからすら搾取されているのですが、彼はそれを守るのです。
そしてタンクレディとの出会いによって、狼の遠吠えを行う。遊びですけれど、これはラザロがとても奇妙な立ち位置にいることを示してもいます。
愚者、聖人、はては本当におかしい青年。ラザロはこの世界においてどこか浮いた、それ故に取り巻く世界を俯瞰して見せるきっかけをくれるキャラクターです。
いつ、どこなのか、それをあまりはっきりとさせないこの映画内の世界。これは観る人に自分の世界であると感じてもらうためかと思います。
高熱を出すラザロの頭を、まるで御利益のあるものかのように次々に触る小作人たち。この後彼らは解放されます。そして背負い込むかのようにラザロは一度死んでしまう。
そしてその後、映画を観ててもびっくりしたのですが、まさかのタイムジャンプを経てラザロが復活し、元小作人たちに再開。ですが、あれを見て真の解放などなかったと絶望しますよね。
元小作人たちは今やほとんどホームレスで、今度は人から盗んだりして生計を立てている状態。彼らが地主、領主からの隷属的な搾取から解放されたとしても、この社会での弱者には変わりない。それどころかずっと悪くなっていると思います。
しかも今回は、あのタンクレディと地主ですら銀行というより大きな存在により”取られる側”になっているのです。
抜け出せないこの歪んだ構造。
ラザロは二度目の死を迎えます。
彼は階級を超えたものであり、復活を果たした人。奇跡そのもののような彼がついに消えてしまうシーンはすごく悲しい。
遂にこの映画世界からは、聖なる愚者も、無垢で優しい青年もいなくなってしまうのです。
あれだけ私欲のないラザロが教会を後にして夜の街かどでふと涙を流します。喜怒哀楽も感じなかったラザロが、涙という非常に感情的なものをみせるとき。
聖なる歌はもう人から離れて、ラザロと共にこの人の世から消えていくのです。
喪失の中で最後にふと思い出すのは、元小作人たちが住む貯水タンクみたいなところで、ラザロが周囲に生えていた食用植物を見つけるシーンです。
食べるもののため人を騙し盗んでいた彼らにとっては驚きですが、何より「こんな身近に宝物があったなんて!しかもそれを踏みつけていたんだ!」という言葉が思い出されました。
この社会に、なにか聖なるもの、奇跡が起きたら・・・ではなくて、すでに存在し起きていたらどうでしょうか。
アリーチェ監督は実話と神話をかけ合わせることでその境界を不明確にし、ラザロという視点を与えることで社会構造にもう一度目を向けさせ、さらには知らずにラザロを殺しているかもしれない私たちをも映したように思います。
ラザロをどうとらえるかは観る人によって変わるかと思いますので、一度観てほしい作品です。私にとっては不思議と心に残り、癒しを与えながらもなぜか責め立ててくるような作品でした。
感想はここまでになります。最後まで読んでいただきありがとうございました。それではまた次の記事で。
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