「ホモ・サピエンスの涙」(2019)
- 監督:ロイ・アンダーソン
- 脚本: ロイ・アンダーソン
- 製作:ペルニラ・サンドストレーム、ヨハン・カールソン
- 製作総指揮:サラ・ネーゲル、イザベル・ウィーガンド
- 撮影:ゲルゲイ・パロシュ
- 出演:レスレイ・リヒトワイズ・ベルナルディ、アーニャ・ノバ 他
「さよなら、人類」などで有名なスウェーデンのロイ・アンダーソン監督が描く、様々な人間模様の集合。
作品はヴェネチア国際映画祭のコンペに出品され、監督は見事銀獅子賞を獲得しました。
大本のスウェーデン語タイトル”Om det oändliga”は英題と同じような「永遠/終わりの無さについて」という意味ですが、ローカライズでは思い切って改題していますね。
かなり著名な監督とのことで名前は知っていましたが、実は作品はひとつも観たことがありません。
ある意味で作風も知らないまっさらな状態での鑑賞になりました。日比谷にて観ましたが、結構人が入っていましたね。
信仰を失い酒浸りな神父、患者の態度にあきれる歯医者、カップル、夫婦、過去に酷いことをして後悔する男。
様々な人間がいる。彼らの少しの間、ほんの2~3分を切り取り、眺めていく。
この作品は言ってしまえばオムニバス形式だとは思いますが、でもそんなくくりで言い表せるのか疑問にも思います。
なんというか、何にも定義しがたい作品でした。ただ、人間についてなのは確かです。
ほんの数分の、オチもないような人間たちのやり取りや態度が流れていく。それでの作品で、誰かに重要な役割もなく、名前もわからないことが多く、また全体を通して実は一つの話であることもない。
不思議すぎる。
人が演技して演出して、そして撮影した人工物のはずが、もちろんもろに人工物だということが提示されているのに、そう信じられない。
詩を、エッセイを、そのまま映像にしたような。だから情景を自分の中で想い描くだけのものが、実際に目の前に出てきている、ふわふわしたもので。
ちょっと何言っているか分からないかもしれないのですが、映画ではないような、でもちゃんと映画な映画です。
画面は固定されています。まるでスクリーンは絵画のフレームのように感じられ、グレートーンで統一されたどこか寒い、寂しい感じの、しかしそれこそ絵画のように非常に美しい画面が展開されます。
そして、絵画が動き出したかのように、正確に心地よく人物や事象が動いていく。
そこにはちょっとした困惑とか、悩みとか、後悔や怖れ、喜びや愛があります。
人類史のあれこれもあり、敗北を悟るヒトラーや戦争の後の悲惨な収容所への行進も。それらは酔っぱらってフラフラの神父や、また世界の永遠について語る青年の画と同じ並びになって出てくる。
一切の差がありません。抑揚も重要度の差もなく、平坦で均質。大事でもちっぽけなことでもないんです。
それはこの作品が持つ視点が、神様のような存在にあるからなのかなと思います。
だから人間の最悪な部分も、日常の些細なことも、そしてとても美しい部分も、全部平等な目線を送るわけです。
なんともままならない人生や、荒涼とした色彩に欠けて灰色がかる画面に、やや陰惨とした印象が濃くなっていく。
それでも熱力学の法則の話には、私たちの永遠が語られます。終わりがなく失われないからこそ、いつか再び巡り合える希望が持てる。
そして偶然に聞こえてきた音楽に乗せて、3人の女性は踊りだす。何と美しい。
どんよりとした空。今作は「もう9月ね」ではじまります。そう、秋の始まり。そしてあのバーの店内からのショットでも見える、(これまたとても綺麗な)雪。
季節を人類に重ねるとすると、もしかすると愛や恋の季節は過ぎ去り、荒廃していくことを示唆していたのかも。
でもアンダーソン監督は季節が繰り返すことを入れ込み、春がやってくることを訴えていると思えます。そして、冬の中にもふととても暖かなものもあると。
映画が始まってすぐ、これまたグレー一色な、廃墟と化した街の上を、男女が抱き合って浮遊する。
このショットそのまま額縁に入れて飾りたいほど息をのむ美しさがあるんですが、これが象徴的だなと感じます。
荒れ果ててしまっても、愛する人を抱きしめ生きていける。
ロイ・アンダーソン監督、人間という生き物をずっと眺めて、いろいろな面を観察して、それでも希望を持っているのでしょう。
とにかく劇場で観てもらわないと、なんとも言葉でいえない作品でした。そして、こんな映画、私はみたことがありません。生きること、何でもないようで大切な日常なら「パターソン」とか好きなのがあるんですが、それとはまた全然違います。
観れて良かった。素敵すぎる映画です。考察とかドラマチックさとかじゃなくて、眺める気持ちでぜひ鑑賞を。
感想は以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
それではまた別の映画感想で。
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