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「世界の優しき無関心」”The Gentle Indifference of the World” aka “Laskovoe bezrazlichie mira”(2018)

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映画レビュー
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「世界の優しき無関心」(2018)

  • 監督:アディルハン・イェルジャノフ
  • 脚本:アディルハン・イェルジャノフ、ロエロフ・ジャン・ミンネブー
  • 製作:シェリク・アビシェブ、オルガ・クァルシェバ
  • 音楽:ヌラシール・ヌリディン
  • 撮影:アイダル・シャリポヴ
  • 出演:ディナラ・バクティバエヴァ、クァンディク・デュセンバエフ、クルジャミラ・ベルジャ・ノヴァ 他

第31回東京国際映画祭、ワールドフォーカス部門に出品された、カザフスタン/フランスの映画。今作はカンヌ国際映画祭にてもある視点部門で上映されました。

監督はまだ30代ですが、すでに6本ほど長編を作成し、カザフスタンを代表する方とのこと。

今回の映画祭ではQAはありませんでした。

私はカザフの映画は全然見たことがないし、タイトルがカミュの引用というのも知らないくらい空っぽな状態でしたが、単純にスチルの美しさに惹かれて鑑賞。

あらすじとかで想像していたよりもずっとヘビーで、そして想像以上に美しい作品でした。

カザフスタンの自然が広がる大地に囲まれたお屋敷に、お嬢さんが住んでいる。

父の突然の死により、お嬢さんと母には多額の借金が残されてしまった。このままでは母が刑務所送りになってしまうため、お嬢さんは借金を肩代わりしてくれるという伯父さんの知り合いのもとへ行くことになる。

出発の日、一家の使用人であるクァンドゥクという男も同行し街へと行くことになった。

彼は都会に友人がいると言っているが、お嬢さんが心配でお供をしたかったのだ。

先にも言いましたけども、残酷な部分も多く(話が)、それでいて画面に映し出されるのはとても美しい作品です。

無垢な二人がどんどん酷い境遇へと堕ちていき、ある意味でノワールのような暗く悲しいお話なんですが、お嬢さんのサルタナットとクァンドゥクの二人を映し出す撮影の画面構成や色遣いなど、どこまでも柔らかく優しく素晴らしかったです。

赤いドレスが印象に残るお嬢さんと彼女を照らす赤の光、そしてクァンドゥクは走るときにバックに移る青空を背負います。

おぼろげな光はとても柔らかい感触で二人を包みながら、同時にその儚さは二人が信じようとした世界の心理が崩れていくことにも重なる気がしました。

サルタナットとクァンドゥクが車内で決意の会話をするシーン。窓ガラスが紫になっていて、二人のカラーが統合したようで素敵でした。

また今作はそのカラーリングや光が変容したり移り変わる様もとても印象に残りました。

変化があるんです。

伯父の下での交渉シーンでは、サルタナットをそれまで暖かな日光が照らしていたのに、この先の闇を暗示するように日が陰って、青ざめた空気に包まれます。

また母と面会した刑務所では、水の反射のような光のきらめきがありましたね。

そのほかにも、画面内のフレームの入れ込みは序盤に目立ちました。

奥のドアから手前のドアまで映して、何重にもサルタナットが狭い枠に閉じ込められたようなショットも見事でしたし、クァンドゥクが犯罪の渦に落ちる際には、暗いコンテナの奥へと進みました。

画面で多くを語り、あまり台詞がない今作。

そしてセリフのあるシーンではその切り取り方もこれまた丁寧でおもしろかった。

やはり画面の外でしゃべっている人に、カメラを向けないシーンが多く感じます。

その言葉の発信者ではなく、受け取るお嬢さん、クァンドゥクが、そのリアクションこそが重要なのです。

また完全に堕ちてしまったお嬢さんが、あの伯父さんの友人と話すシーンでは、鏡を前に話すサルタナットだけをずっと映していて、おっさんのほうへは一切カメラを振りません。

「あなたはお金だけ。それ以外何も考えていないのね。」

辛辣な言葉ですが、画面構成ではサルタナットが鏡の自分自身に言い放つようにも見え、イノセンスが完全に死んでしまったことを、心の奥底のサルタナットが非難しているようにも思えます。

クァンドゥクもサルタナットも、追い求めていた理想とは遠く離れた現実に叩きのめされ、醜悪な世界に食われていく。そこでは二人の無垢さも消えてしまう。

父の死がなければ医大から医師として成長するはずだったというサルタナットが、病院の廊下を清掃員として掃除する。

友人は立派に仕事をし家庭を持つ中で、田舎の使用人でありケンカで小銭を稼ぐクァンドゥク。

お互いが自分の生を語るとき、ゆっくりとしたズームインが使われますが、その通り、じっと見つめていかないと人の生って見えてこないんですね。

こういった点はとても普遍的で、自分の人生、どうしてこうなったのかという想いは誰にでもあると感じます。

しかしクァンドゥクは上手くいかなかった人生を悔やみはせず、良かったといいます。なぜなら彼には、いつまでも気高く美しいサルタナットがいたからです。

彼にとってはまさに、どんな仕事も給料も、権力も何もかも、サルタナットの髪の毛一本ほどの価値もないのです。

だからこそ、後に象徴的な金貨を浴びせる演劇を観ているところで、目を合わせるサルタナットとクァンドゥクがとても切なかった。

唯一の真理であったお嬢さんが、堕ちてしまったから。

でも、クァンドゥクはサルタナットへの愛を信じて行動に出ます。

世話になったアルマンを裏切ることになって、水をあげていた白い花も朽ちてしまい、クァンドゥクとサルタナットはお屋敷の回りのような大地まで逃げますね。

馬のそばで本を読むサルタナットに、クァンドゥクがガラスの反射で光を当てからかう場面が思い起こされますが、やはりお嬢さんにとってもクァンドゥクは光を当ててくれる真理だったのかもしれません。

眠っているお嬢さんを起こそうとするシーン、外へ出る夢を描く飛行機の遊び。触れあいそうで触れなかった手が、最後にやっと触れあうラストの綺麗なこと。

官僚や警官、市場などどこまでも腐っている批判をいれながらも、無垢なイノセンスが確かに存在し、そして喰われて死んでいく様を、最後まで優しいタッチで描く美しい作品でした。

ちょっと長くなりましたけど、すごく静かで美しい叙事詩的作品。

日本での一般公開もしてほしいと思いますが、映画祭でも眠そうにしていたり、飽きたのかもじもじ動いている人が目立ったので厳しいかな?

今後もまだ映画祭での鑑賞作品の感想を追加していきます。それではまた~

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