作品解説

北ドイツの農場を舞台に、異なる時代を生きる4人の少女たちが遭遇する不可解な出来事を描いた映像叙事詩。
監督・脚本を手がけたのは、本作が長編第2作となるドイツ出身の新鋭、マーシャ・シリンスキ。
本作は2025年、第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、オリバー・ラクセ監督作「Sirât」とともに審査員賞を受賞。国際的にも高い評価を獲得しています。
スタッフ
- 監督:マーシャ・シリンスキ
- 脚本:マーシャ・シリンスキ、ルイーズ・ピーター
- 製作:マーレン・シュミット、ルーカス・シュミット
- 製作総指揮:ラッセ・シェルペン
- 撮影:ファビアン・ガンパー
- 美術:コジマ・フェレンツァー
- 衣装:サブリナ・クラーマー
- 編集:エベリン・ラック
- 音楽:ミヒャエル・フィードラー、アイケ・ホーゼンフェルト
キャスト
- アルマ(1910年代):ハンナ・ヘクト
- エリカ(1940年代/戦後):レア・ドリンダ
- アンゲリカ(1980年代/旧東ドイツ):レーナ・ウルゼンドフスキー
- レンカ(現代):レニ・ガイゼラー
監督はこれで長編2作品目。初めは2017年に「Dark Blue Girl」という作品を撮っています。「システム・クラッシャー」や「この茫漠たる荒野で」などのヘレナ・ゼンゲルを主演にしていた作品。
復縁しようとする両親を止めようとする少女の話ということですが、未鑑賞。
今作自体もじつはあまり知らなかったのですが、予告編が奇妙でなんだか恐ろしく印象に残っていて、調べてみたところの圧倒的な高評価に惹かれて鑑賞を決めました。
公開規模は小さい感じでしたが、そこそこ人は入っていました。
〜あらすじ〜

1910年代。北ドイツのとある村で、アルマは自分と同じ名を持ちながら幼くして死んだ少女の“気配”に気づく。
1940年代。戦争の傷跡が色濃く残る中、エリカは片脚を失った叔父に対する抑えきれない欲望に戸惑い、自らの内に潜む得体の知れない影と向き合うことになる。
1980年代。アンゲリカは、常に肌にまとわりつく“何か”の視線に怯えながら日々を過ごしていた。
そして現代。家族とともにこの地へ移り住んだレンカは、自分の存在が薄れていくかのような孤独に蝕まれていく。
時代を越えて交錯する、名もなき不安と気配。
100年の時を経て響き合う彼女たちの感覚は、やがて北ドイツの農場全体を、静かに、しかし確実に侵食していく。
感想レビュー/考察

言葉にならないものを映像にするという挑戦
言葉にできないもの。言葉になっていないもの。
また姿形を持っていないもの。
ただ、確実にそこに存在し感じ取ることができて、それはある。
因果や運命。人生の呼応とか人間の魂の不可思議な結びつき。
なぜか知っている。どうなるのか分かる。ただし変えることはできない。
場所の記憶。土地に染み付いた軌跡。
そんなものを映画化したのが今作です。なぼで不可能を可能にして映像表現にしてみせた傑作ということです。
前提にそのような難しいことを成し遂げてみせた偉業があるために、言葉で説明していくのが難しく。
またとてつもない映画ではあるものの、それをうまく思考に落としていくのも大変だと思います。

非線形構造と“隙間”に委ねられる解釈
物語は断片的に展開され、そして非線形を持つ。時間は入れ替わり、視点すら客観と主観を交錯させていく。
画面の朧気なブラー。これが想像なのか、夢か現実か。
そこには意図的な余地が用意されていて、その隙間は観客が思考して埋めることになります。
ただ、連続する年代と視点を変えた映像に、何かがいると思う。何かが存在し女性たちを苦しめ、恐れさせ、運命に導くと思える。
今作はホラーではない。少なくともこのドイツの家に悪霊がいるとか、実は恐ろしい異教がはびこっているわけでもない。
ただ何か分からないが存在する概念的なものがつきまとう。
“何かがいる”という感覚
映画のなかで何か不安をたたえ続けていて、正直そのへんのホラー映画よりも怖い体験になりました。
それでもぶつ切りになった物語の断片を拾い集めて、何かが起こるかもしれない不安と向き合い考え続ける。
今作は2時間30分以上の長尺ですが、精神をぐっと掴まれるような体験で長くは感じません。

“分かっていないこと”が生む恐怖
もう一つ、今作の恐怖や不安が強まる要素として、登場人物自身がなんとなくの認識を持っているということが挙げられます。
見えているけど分かっていない。でも見てるし感じてる。その中ぶらりんな状態の不安と怖さですね。
少女たちの目線を主として各時代が展開されていく関係上、周囲の状況や自分自身のことを子供目線で見ています。
ちゃんと理解できていない。コントロール下にも置けていない。
なぜ叔父を納屋の2階から突き落とし足を切断したのか。
叔父の世話をする女中の、”数日間消え、何かをされた”とはどういうことか?
死んだ子供を人形のように着飾らせ目を縫い合わせて開き写真を撮るのはなぜ?
目の前の行動や事象を目撃はしていくものの、少女たち自身はそれが何を意味しているのかハッキリと理解できません。
それでも良くないことが起きているとか、なにか不穏な空気は感じ取れる。自分に起きていることを客観視することを試みる。
映像そのものが“理解の手段”になる
この作品自体が、映像化することと、主観と客観を使い分けたカメラが、こうした少女たちの悩みを助ける手法であり、観客を彼女たちの不安にいざなう機能でもあるのです。
川を渡る意味は?ウナギが象徴するものは?
繰り返される写真撮影と人物のボケ。まるで幽霊のような映り方。
すごく象徴的な事柄も多いです。
ここまで見てもかなり人を選ぶ作品であるのは間違いないでしょう。
言葉にできないものを映像を通して感じ取らせていくのですから当然、普通のエンタメ的な見方はできない。

“女性の犠牲”という核心にたどり着く
ただ紐解くほど、恐ろしい事実や長い年月にわたる女性の犠牲が浮き彫りにはなってきます。
あの農家で起きていること。
叔父の足の切断。それ自体は突き落とされた結果としてのことと思いますが、のぞき込んだ鍵穴で見えたのは斧で腕を切り落とそうとする母親の姿。
後にわかりますが、あれは戦時中の徴兵逃れのためだったのですね。
支配構造から逸脱した叔父に引き寄せられる女性たち
そしてそんな叔父に対し二人の女性が描かれる。OPすぐに足のないふりをして遊んでいたエリカ。
彼女は共感をベースにその足のないふりをしていたとは思えません。単純な興味でしょうか。
しかし、ヘソに滴り溜まった汗を拭って舐めて見せる様に、性的興味を覗かせます。
その後で彼女を呼ぶ声に応えて外に出るエリカですが、思いっきり平手打ちをくらいます。
豚の管理ができていないことに対して手も挙げられる。
彼女は一家の娘ですが、女性というのは道具のように扱われているのです。
もしかするとエリカの叔父への執着は、足がない不能ゆえに、逆にあらゆる責務や役割から解放されているところへの憧憬かもしれません。

時代が変わっても消費物として犠牲になる女性たち
その叔父に関わるもう一人の女性は、使用人のトゥルーディです。
彼女はこれまた鍵穴から覗いた視点つまり記憶では叔父の部屋で介護をしつつ、性処理もしていました。
ただそこでは彼女自らの行動に見えます。なぜならトゥルーディにまつわる話が語られる時、エリカとは別の残酷な役割が見えるのです。
森に連れて行かれ、数日後に戻るとトゥルーディの小屋には使用人の行列が並ぶ。
きっと彼女は何らかの不妊処置をされた。
それは1つに使用人としてマタニティリーブが発生しないという利便性。
そして妊娠の危険性がないからこそ、農家の男たちの慰み者にされたのです。
搾取される消費物となったトゥルーディにとっても、叔父は自分を搾取する側ではなく。あの部屋が安全な場所なのかもしれません。
そしてアンゲリカ。彼女の叔父は露わになった彼女の太ももに手を置く。
きっと性的虐待、搾取を受けています。その叔父の息子つまり従兄弟も、それに気づいているからかアンゲリカに近寄る。
アンゲリカは絶えず視線を感じる。水着姿の自分に、その全身に向けられる叔父と従兄弟の視線。
ここにも主観や客観の視線を交える。
アンゲリカは東ドイツから解放され西ドイツへ行きたいのでしょう。
そのために叔父を利用している、していると思いたい。ただ実際の搾取には気づいていて、従兄弟からの性的な欲求にも嫌悪と怖さを持つ。
夜にベッドに入ってくる従兄弟を追い出しアンゲリカは泣く。そこで従兄弟がボールを壁打ちする音が、アンゲリカの心臓の鼓動のように響きます。

死への願望、解放の願い
後に心臓が止まってくれたら、というセリフがアンゲリカから出る。
彼女は前を向いているようで自死の願望もある。
鹿の遺体に自分を重ね、大きなコンバインに轢き殺されたいような願望を見る。
アンゲリカの母はそうは感じさせずとも、同じような搾取と虐待にさらされてきたのでしょうか。
母は笑わず喜ばない。人生の歓びを失った人として描かれます。
レンカは現代のパート。このパートの描写が個人的にはなにか響きます。
妹の母への欲求。河に身を投げて得る注目。
河で出会った少女。彼女は出会ったその日にレンカの家に泊まりたいと言い、夜寝る際に子守唄を求める。
多くは語られずとも、親の愛を受けていないのかと推察できます。
同一化を感じるような、アイスの味選びに、履いていたサンダル自分の足を通す行為。
子どもなので語らないしモノローグも少ないですが、多くを感じ取るような映像表現。

カメラと音が生む“存在の気配”
全体の年代を通し、主観視点と客観視点の錯綜。亡霊の視点のようなカメラを”存在する何か”に置き換えるような目線。
カメラの圧倒的な力も素晴らしい。
一方で音の構成にも魅了されます。河や自然のざわめきは何かの警鐘のようで。今作では特にハエの羽音が繰り返し使われています。ハエ自体も良く出てきますが。
ハエとは死を暗示する。骸に群がる虫だからです。不穏な死と死を渇望する様が込められた本作。
長い歴史の中で、一つの場所が記憶を持ち、刻まれていく女性たちの犠牲。
記憶を繋ぎ合わせたり、主観だったり。映画でしかできないような表現の傑作の中でもう一つ最後の機能を感じます。それは掴むこと。
“見る/見られる”の反転と救いの瞬間
カメラが向けられる少女たちは、逆にカメラの方を見つめなおすシーンがそれぞれに用意されています。
常に私たち観客は彼女たちを眺めてきた。彼女たちは視線を向けられてきた。
それが逆転し、少女たちはこちら側つまり外の世界と繋がります。私にとっては、それがこの作品ができる唯一の、少女たちが救いの手を掴む瞬間なのかと思いました。
ふさぎ込む少女たちが、唯一スクリーンを通して外を見て。
象徴的だし非線形の物語だし、とても難解な感覚がある作品ですが、不可能を可能にして、映画だからできることとして完成させた素晴らしい作品でした。
万人におすすめができないですが、興味があれば見逃さない方が良いと思います。
今回の感想はここまで。ではまた。


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