作品解説

ケン・ローチ監督が、「わたしは、ダニエル・ブレイク」、「家族を想うとき」に続く“イギリス北東部3部作”の最終章として手がけた社会派ドラマ。
脚本は、長年ローチ作品を支えてきた名脚本家ポール・ラバーティ。移民問題や地域コミュニティの分断をテーマに、経済的に疲弊した炭鉱町に暮らす人々の姿を、温かなまなざしと鋭いリアリズムで描き出します。
主人公TJを演じるのは、「わたしは、ダニエル・ブレイク」と「家族を想うとき」にも出演したデイブ・ターナー。シリア難民の少女ヤラ役にはエブラ・マリ。
2023年・第76回ロカルノ国際映画祭で観客賞を受賞。また、第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門にも出品され、高い評価となっています。
スタッフ
- 監督:ケン・ローチ
- 脚本:ポール・ラバーティ
- 製作:レベッカ・オブライエン
- 製作総指揮:パスカル・コーシュトゥー、グレゴワール・ソルワ、バンサン・マラバル
- 撮影:ロビー・ライアン
- 美術:ファーガス・クレッグ
- 衣装:ジョアンヌ・スレイター
- 編集:ジョナサン・モリス
- 音楽:ジョージ・フェントン
キャスト
- TJ・バランタイン:デイブ・ターナー
- ヤラ:エブラ・マリ
- ローラ:クレア・ロッジャーソン
- チャーリー:トレバー・フォックス
ケン・ローチ監督の新作ということですが、今作は2023年の作品なのですね。
ケン・ローチ監督作品が日本公開までに3年もかかっているというのはちょっと意外でしたが、実は作品の内容jjっ事態に関しては日本にとっては非常にタイムリーなものになっていると思います。
結果論ですが、公開時期が遅れてよかったと思います。都内の小さな映画館へ観に行きましたが、年齢層は高いもののやはり監督の人気もあって満員に近い状態でした。
~あらすじ~

イングランド北部のかつて炭鉱で栄えた町。
住民たちの憩いの場として長年親しまれてきた最後のパブ「オールド・オーク」は、時代の流れとともに町が衰退していくなかでも、店主TJ・バランタインによってなんとか営業を続けていた。
しかしある日、町でシリア難民の受け入れが始まったことで状況は一変する。
住民たちの不満や不安が噴き出し、本来は人々をつなぐはずだったパブは、対立と分断の象徴のような場所へと変わっていく。
先の見えない現実に苦悩するTJ。そんな彼は、カメラを手にしたシリア人女性ヤラと出会う。
異なる立場にありながらも少しずつ心を通わせていく二人の交流は、やがて町に小さな変化をもたらしていく。
感想レビュー/考察

ケン・ローチが描く“希望”――「イギリス北東部3部作」最終章
ケン・ローチ監督はこれまで市井の人々にカメラを向けて、その苦悩を描いてきました。残酷な終わり方もしてしまうような作品がありましたが、今作ではほんのり希望も込めています。
今作では貧しい人々や労働者階級も描かれますが、メインになっているのは移民についてです。撮影においては実際に戦火を逃れてやってきた移民の方たちを採用して臨むなど、本格的である点も魅力。
そこから移民に向けられる差別や攻撃を容赦なく描きます。
しかし、真に描き出していくことについては変わっていませんでした。
ケン・ローチ監督は変わらずにシステムの不正や機能不全を描いているのです。そのために影響を受けて苦しむ人々を周りに置いているというのが正確な作家性でしょう。
移民への憎悪――排外主義を“そのまま”映し出す
確かに今作では耳をふさぎたくなるような、目を覆いたくなるような移民への攻撃が描かれます。
主人公TJのバーに入り浸る地元民たちは、酒を煽りながら移民を口汚くののしります。そして移民の少年への攻撃動画に関しても、よくやったと言わんばかりに盛り上がる。
”ラグヘッド”という言葉で(つまりイスラムにおけるヒジャブなど、頭に布を巻いている姿)奴らとして差別し、敵対する。レイシストでは無く自分たちの生活を守ろうとするだけという。
こういう声は今まさに日本でも、様々な場所やSNS上で多く見かけるようになっていますから、とても他人事とは思えませんでした。

しかし、監督はこうした排他的な存在や人種差別的な人々を批判してはいない。ただ嘘偽りなく描いているだけです。
批判しているのは彼らや移民たちとの対立を生み出す社会システムそのものなのです。
炭鉱町の記憶――なぜ人々は“敵”を求めるのか
もともとこのオールド・オークのある町は、かつて炭鉱でにぎわっていた。
しかし、ちょうどTJや彼の親友であるチャーリーの親世代。彼らは労働争議を起こし、ストライキで果敢に体制と闘ったと伝えられます。
その際に団結し、オールド・オークの今は閉ざされた奥の部屋には、炊き出しと皆が平等に集まって食事をした写真が残っています。
実際にイギリスではサッチャー政権の下で炭鉱夫たちによる大きなストライキがありました。
そういえば、これは「リトル・ダンサー」でも描かれていましたね。主人公がバレエに入れ込んでいると父親がめちゃくちゃ怒っていたのを思い出します。
なのであのビリー君世代が、TJたちなのだと思うと結構辛い少年時代です。
その時代の写真が多く残されていて、その時にはシステムに対してみんなが真っ向から闘ったことが描かれている。しかし、その後炭鉱のつぶしから始まった解体は彼らを追い詰めていき、いまや町全体が終わっていく感覚に包まれているのです。
そのやりきれない現状に、攻撃対象としてあてがわれたのが移民たちなのです。
「弱い者を攻撃する」構造への警鐘
言ってしまえば、本来はこの現状を受けて住民たちはシステム側に今一度立ち向かうはずのところ、システム側は移民受け入れの場所にすることによって攻撃の的を、敵をそらせたということです。

TJの言葉で非常に印象深いものがあります。親友チャーリーの裏切りに良かった彼が放つ言葉。
「人は苦しいとき、自分より弱い者のせいにする。攻撃できる相手を探すようになる。自分自身はシステムにドアマットのように踏みつけられているくせに。」
これこそが監督の真意でしょう。
苦しみの大本は、人々に尽くすべきシステムの腐敗や機能不全にあるのに、そのシステムに都合よく攻撃相手を与えられ、操作され。立ち上がることを止めてしまう。
その姿に、監督は警鐘を鳴らしている。
“カメラ”が記録するもの――町の記憶と再生
この作品ではカメラが印象的なアイテムとなります。初めにヤラの手から奪われ壊されてしまう。その後TJや友人の手によって修復される。
直っていく、立ち直っていくというのもいい意味がありますが、カメラというモノ自体にも意味がある。
カメラは記録するもの、歴史をとどめるもの。
ヤラにとって、シリアの自分の生活を残すツールでもあります。そして彼女が新たに撮影していくのは、再生の記録です。人々が団結し、支えあい、この町がにぎやかに立ち直っていく様子。
そう、TJの親がストを起こした際に、町のみんなが一つになった様子を撮影したのと同じように。
町の記憶そのものを示すカメラが納めていくものが、悲惨な移民排斥の様子や、少年を寄ってたかって暴行する動画であってはいけない。
ケン・ローチ監督はいま私たちが陥ってしまっている状況に対し、思い出させる。
弱者を攻撃するのではなく、真に解決し変えていかなければいけないシステムに改めて目を向けさせる。人と人のつながりにはそれを変えていくはずの力があると信じる監督の心に、胸を打たれました。
日本でもSNSやさまざまなところで、移民へのバッシングを見ます。経済的な不況、漠然とした将来への不安、孤独や苦しさ。
本当にそれを解決すべき政府が機能しているのか見直した方が良い。移民を攻撃することでシステム自体が変わるわけはないから。
ケン・ローチ監督はこれで最後の監督作品ということで残念ですが、こうした心はいつも見直して思い出していきたいと思いますね。
ではまた。ということで、感想はここまで。


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