作品概要
1990年代のアメリカ郊外を舞台に、自分の居場所やアイデンティティに悩む若者たちが、深夜番組の登場人物に自らを重ねながら現実と幻想の狭間でもがく姿を描く。
孤独や現実逃避、メディアとの関係性を不穏かつ幻想的なトーンで描いたスリラー作品。
監督・キャスト
- 主演:ジャスティス・スミス(「名探偵ピカチュウ」)
- 共演:ジャック・ヘブン(「ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!」)
- 共演:ヘレナ・ハワード(「ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド」)
- 出演:スネイル・メイル(リーンジー・ジョーダン)、ダニエル・デッドワイラー(「ティル」)、フレッド・ダースト(リンプ・ビズキット)
監督・製作背景
監督はジェーン・シェーンブルン。自身の青春期の葛藤を原点に「自分を理解できず、フィクションやテレビ番組の中に答えを探していた経験」を作品の出発点と語っています。
本作は、クイアの若者が自らのアイデンティティを探す旅をテーマにした物語であり、幻想と現実が交錯するミステリーとしても楽しめる作品ということ。
もともと存在にも気づいていなかった作品。というか劇場でも予告を見なかったぞ。。。
単純に週末のラインナップを見る中で見つけて、知らば得ると非常に批評家からの評価は高かったので興味を持つことに。ジャスティス・スミスも好きな俳優ですし。彼はとても幅が広くて。
公開週末に鑑賞しに行ってきました。ただ、なんというか小粒な作品だからか、そしてとはいえシニアに受けるわけでもなく、ほとんど人が入っていない状況で。一部、A24作品だからという理由での若い客がチラホラといったところ。
~あらすじ~
冴えない日常を送るティーンエイジャーのオーウェンにとって、土曜の夜に放送される謎の深夜番組「ピンク・オペーク」は現実から逃れるための唯一の拠りどころだった。
彼は同じ番組のファンであるマディと出会い、次第に番組の登場人物と自分たちの姿を重ね合わせていく。
しかし突然、マディが姿を消してしまう。
残されたオーウェンは、彼女の失踪の意味と自らの存在に向き合うことになる。現実と幻想の境界が曖昧になる中で、彼は「自分とは何者なのか」という問いに引き寄せられていく。
感想レビュー/考察
評価が真っ二つに割れる理由──批評家絶賛・観客困惑の映画
批評家の評価は高くとも、一般観客からの評価が低い。そんな映画。見れば理由も分かります。これは当事者映画というか、しかも精神的な変遷と旅をあえて抽象的な映像に起こした映画。
なので、意味が分からなくて単純にコミュニケーションできない作品とも映ります。そうすればただただ訳の分からないことが続くので、退屈でしょうし評価は下がる。
しかし、当事者映画ということは、まさに自分事として映る人には抗いがたい力を持っている作品です。
ということで、ハマる人には自分の人生を語らええ外られ、否応なく直面させられるからとびぬけて高評価になりますし、そこにハマらない人にとっては、それを客観的にでも理解できない限り無駄な時間とすら思える映画になっています。
クィアネスと自己同一性──自分を理解できない痛み
では、その当事者映画というのは何の当事者か。
それは、特に絞り込んで言えばクィアネスです。自分の性的趣向、自認が揺れ動いている人やもがき苦しんだ人こそ、この主人公たちの痛みと恐怖を体感すると思います。
そして、そういった自己同一性や自分自身の実存性をフィクションの中に求めて探し続けてきた人にも、この苦しさと絶望が襲い掛かるでしょう。
逆に言えばその辺にはそこまでピンとこない人にとっては、あまりにも分かりにくく作られている映画になっているでしょう。
その意味で、私には刺さりました。
クィアネスは分かりませんが、自分を分からないままに人生が終わるのではないか、つまりこの苦しみと別人の人生と肉体に縛り付けられ続けるという苦痛が永遠を持っているという恐ろしさが刺さるのです。
当事者による当事者の物語──監督と俳優が体現する「クィア映画」の本質
さて、私の感じるところの前に、この作品がまさに当事者によって作られているという点も注目の点です。
まずは監督のジェーン・シェーンブルン。自らをトランスジェンダーであると明かしている監督ですが、すでに結婚していた32歳のカミングアウト。そんな自分を語るように、今作の脚本を書き始め、オーウェンの幼少期や青年期などには自らの経験を込めているとか。
今作に関して、その撮影やロケ、また特徴的な光の使い方なども含めて語れらています。
主演になっているジャスティス・スミスも、クィアであることを明かしていますし、ベティ役のジャック・ヘヴン(ブリジェット・ランディ=ペインから改名)もノンバイナリーであると明かしています。
演者にも自分自身について変容や解放を経験してきた人がそろっています。
だからこそこの作品は自分自身を理解しようともがいた人や世界と自分との折り合いを付けようと苦しんだ人たちによる感情の旅を、当事者視点で描き出しているのです。
ネオンが物語る──人工の光が象徴するアイデンティティの揺らぎ
今作ではライティングが非常に特徴的。パープルやピンクなどのネオンライティングがいたるところに登場します。あまり自然光が使われておらず、曇り空や夜だったりですね。
人工的に生み出されている光に囲まれる。TVの画面の光も同じ。これは様々な色合いという多様さや移ろいを表すようにも思えます。
また発されている光が登場人物を染め上げる点からは、オーウェンたちが外からの影響によってその色つまり人格やアイデンティティに影響されているともとらえられます。
人工の光自体は魅惑的でありつつも、自然光に比べてどこか不気味な雰囲気を持っているなど、とにかくライティングが視覚的に楽しめて深く物語にかかわっていると感じられます。
テレビが世界をつくる──90年代における環境と自己形成
自分たちの環境。その光はTVから漏れ出ている。
TVのなかで展開されるものもまた、自分たちが活きてくるうえでの環境の一つです。特に舞台となっている90年代は、その時代に生まれて思春期を過ごした世代にとって非常に大きな存在です。
TVにある物語、ドラマや映画。そこに現れる登場人物。その一つ一つが自分自身を理解していくことに影響する。
この感情は私にも理解できました。TVの中での世界こそ、理想的な世界であったり、自分を投影できるキャラクターがいたりそして憧れることも。
私たちは少なからず環境によってつくられる。それがオーウェンとマディにとってはもはや自分たちの現実以上の現実だったのです。
「僕はテレビが好きだ」──オーウェンの喪失と違和感
マディは女の子が好きだと言います。彼女は自分が同性愛者であることと、それから逃げられないことを覚悟していた。それでこそ、いま生きている現実とそこで求められる自分の乖離に苦しんでいた。
そして「ピンク・オペーク」の世界こそがマディの生きるべき世界と知った。
そんな彼女に「あなたは男と女どっちが好きなの?」と聞かれ、オーウェンは答えられず、「僕はテレビが好きだ。」と言います。
自分ではない人生を生きる苦しみ
オーウェンは導き手ともいえるマディを失う。同時に「ピンク・オペーク」も打ち切りになってしまう。
彼は違和感を覚えながらも生き続けることを選ぶ。自分の中の何かを隠して。抑え込んで。
でもそれは、まるで違う人間の身体に精神を押し込められるような、もしくは自分の中に無理やり異物を詰め込まれているような、非常に苦しい人生を選ぶことです。
この苦しさがとてもリアルです。もうこのまま自分は自分ではない現実と人生を生きなければいけないんじゃないか。自分を理解してらしくあるこも分からないままではないか。そんな恐怖と生きている。
残酷なジャンプでオーウェンは歳を取ります。自分なりに繕っていたものの、限界がある。
ものすごく悲痛な作品だなと思いましたし、安易な救いでごまかさないなと思います。それでも最終幕、オーウェンに少し救いがあったと思う。それは彼が自らを切り開くというシーン。
痛みを伴う、自らの腹を刃物で裂くという行為。それでも中にはTVの光があった。やはり、オーウェンにとってはテレビの世界こそが現実。これが彼自身なんだと思えるような世界がある。
長い苦しみの旅だったと思いますが、最後はどこか癒しも感じるラストでした。
意味不明だと言われるのも分かりますが、ここまでの解像度でこの痛みを映像に落とし込んでいくというのは、信じられないくらいの奇跡だと思います。
あうあわないはハッキリと分かれるのですが、会う人にとっては直視出来ないレベルの力を持っているすさまじい作品でした。
今回の感想はここまで。ではまた。
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