「グラン・トリノ」(2008)
- 監督:クリント・イーストウッド
- 脚本:ニック・シェンク
- 原案:デヴィッド・ヨハンソン、ニック・シェンク
- 製作:クリント・イーストウッド、ビル・ガーバー、ロバート・ロレンツ
- 製作総指揮:ジェネット・カーン、ティム・ムーア、アダム・リッチマン
- 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンズ
- 撮影:トム・スターン
- 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ
- 出演:クリント・イーストウッド、ビー・ヴァン、アニー・ハー、クリストファー・カーリー 他
イーストウッド監督作にして、彼の俳優としての最後の作品となった作品。たしかに「人生の特等席」(2012)に出ましたが、あれは「ブラッドワーク」(2002)から「J・エドガー」(2011)まで製作を務めたロバート・ロレンツへの友情出演みたいなものです。今作にも製作に名を連ねていますよ。
さて実質的な俳優ラストの作品は、自身でメガホンをとったはい俳優クリント・イーストウッドの締めくくりと言っていい映画です。イタリアの西部劇からアンチヒーロー、そしてアカデミー賞をとる監督になった彼が残した、彼のけじめ。
観たときは今でも覚えていて、ラストは涙が出そうになりました。
デトロイトの町の片隅に、元フォードの自動車工であったウォルト・コワルスキーが住んでいた。
最愛の妻の葬式にて、彼の顔は険しい。疎遠な息子たちは彼の嫌いな日本車のセールスマンになり、孫娘はへそピアス。昔気質なウォルトには反吐が出る現状だ。
妻の生前の頼みで様子を見に来る新米神父でさえ厄介なのに、ウォルトの家の隣に、モン族の一家が引っ越してくる。
そしてその一家の息子タオが、ギャングにそそのかされウォルトの愛車、グラントリノを盗みにはいる・・・
この映画はただ普通に見ても良いなと思えるものですが、それ以上にイーストウッドによるイーストウッドファンサービスがすさまじい。
彼の出演や監督作を思わせる数々の所作やセリフ、シーン。銃を構える姿や平気で差別発言をする姿にハリー・キャラハンが見え、「シャワーですべった」にはスペースカウボーイ、その他タイトロープやハートブレイクリッジなどなど。とにかくイーストウッドという俳優が描写してきた人物たちが代わる代わるコワルスキーに透けて見えてきます。
それはサービスでは終わらず、この物語上で重要な核となって生きていますね。偏屈で差別主義の堅物頑固ジジイ。彼の固く閉ざした過去、そして妻だけに心を開く姿、まるで「許されざる者」のウィル・マニーです。
しかし頑固ジジイがあたふたし、ふて腐れながらも友人を作っていくのはとても面白いものですね。
まるで犬のように唸りながらも、はじめての文化に触れ人に出会う。嫌っていた相手も同じ人間、「硫黄島からの手紙」のような人間としての触れ合い。
「取っておいてくれ。」とたんまり出されるご馳走を前に残念そうに立ち上がるコワルスキーに萌えてしまいますw
彼自身の思う古き良きアメリカ。それを崩してしまうモン族の移民たちですが、コワルスキーは触れ合うごとに、彼らの中にこそそのアメリカ精神を見出していくように思えます。
「身内より見ず知らずのアジア人の方が良い」、コワルスキーの氷が溶けていく運びが秀逸です。
占いやら病気、都合良いと言えばそうですが、自分で台詞で状況を説明してしまうの含めて、イーストウッド監督らしいかと。面倒な説明や観客の理解を促すくらいなら、テキパキとしゃべって話を進める。
今回はジイさんが文句たれているというあるあるな方法で状況説明をしています。
彼の見出した、もしくは知らずになのか、希望をもって少年タオを教育する。
「男らしい会話ってのはこうだ!」とほとんどコントな床屋でのやり取り。若き者に教え込むハートブレイクリッジなシーンの数々ですが、ここは見事にコミカルさを織り交ぜて、大切な友人を得ていく過程を映しています。
その一方で感じる罪の意識。彼につきまとうのは朝鮮戦争の記憶、許されざるものである自分です。モン族の大切な友人に良かれと思いやったことが、裏目に出てしまう。
今までの暴力へ、暴力で解決しようとした結果が最悪のものとなります。このテーマはイーストウッドが常に描いてきたものですね。暴力の連鎖と、その消えない影響。
今回脅しでギャングの家に行った後のシーン、家に帰るウォルトは雨の中帰ってきます。じめっとして陰惨な雰囲気の帰還を入れているあたり、やはり暴力への否定が確実に示されていると思いますね。
ひときわ印象的なのは、家で落ち着きを取り戻したウォルトのシーン。椅子に腰かけ、顔が半分映る暗がりの場面です。あのイーストウッドの頬を、一筋の涙がつたっていく。彼は泣いているんです。こんなイーストウッドは観られません。
そうして赴くのが最後の決戦。
ギャングの前に一人すっと立ち、その瞬間を待つ。
しかし今回のイーストウッドにはマグナム44もなく、葉巻も咥えず、モリコーネの美しいファンファーレもないのです。
静寂の中銃声が鳴り響き、さながら十字架のように倒れるコワルスキー。方法は違えど、イーストウッドはここにまた、ならず者たちを一人で一網打尽にしました。
常に強い男であり、いつも自警的に自分のルールで、その銃で敵を打ち抜いてきた男。亡霊に憑りつかれながらも、「許されざる者」でやはりその暴力から抜けられなかった彼が、ここに出した答えです。
「Get one coffin ready.」「棺をひとつ頼む。」
タオのため、スーのため、モン族の平穏のため。
そして許せなかった自分の贖罪。自分で望んでやった非道、殺人。その暴力による報復を断ち切るため、タオにはその道を歩ませたくないがため。
神父にも懺悔しますが、本当の意味での懺悔はタオを閉じ込めた地下室への扉のところですね。網戸がまるで懺悔室のようになり、ウォルトは抱えてきたものと大事なことを吐き出しました。
タオに与えたグラン・トリノ。
それはウォルトにとってのアメリカ精神そのもの。アメリカ精神は嘘であるというのは、ウォルト自身の暴力の歴史が示し、それでも理想的アメリカ精神をタオに持ってほしかった。
本当に高潔ならば、人種など関係なくだれしも持てるもの。
ウォルトが神父とバーで飲むとき、ウォルトの後ろにはアメリカ国旗が見えます。初めてタオをほめた、「ああいういい子もいるもんだ」と言うシーンでは、窓ガラスの反射に星条旗が。
そして手伝いのため玄関先に立つタオの横、ウォルトとタオの二人で握手した工具店にもアメリカ国旗が見えますね。国旗を背景に、確実に古き良きアメリカというウォルトの心が受け継がれていきました。
大事なのは、イーストウッドはアメリカの古き良き時代、黄金期の映画には出ていないこと。彼はその終わりに来た、というか終わらせた人。
王道西部劇に対して、マカロニウエスタンの旋風を持って新時代を作った人です。彼は目の前でジョン・フォードなどの古き良きアメリカ開拓魂が消えていくのを見て、この2000年代まで映画界に居続けている。
ここで「グラン・トリノ」に乗せたのは、アメリカ映画の精神もあるのかも?
“You’ve got your whole life ahead of you.”「お前の人生はこれからだ。」
ウォルトがタオに、そして言ってしまえばクリント・イーストウッドが私たちに受け継いでもらいたい精神が、この映画に詰まっていると感じます。
ありがとうイーストウッド、そしてさようなら。
俳優クリント・イーストウッドの総てが透けて見え、また彼がずっと持ち続けた呪縛から解放されそして優しさを次の世代に渡す瞬間を映画館で観ることができ、私は本当に幸せでした。
なんだか書いてて泣けてきましたw
もうね。このくらいにします。とにかくおすすめ。でもね、監督はまだやっているんです。まだまだ彼の描くものが観たいんです。本当に。
それではみなさん、また次の記事で。
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