「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」(2024)
作品解説
- 監督:トッド・フィリップス
- 製作:トッド・フィリップス、エマ・ティリンジャー・コスコフ、ジョセフ・ガーナー
- 製作総指揮:マイケル・ウスラン、ジョージア・カカンデス、スコット・シルバー、マーク・フリードバーグ、ジェイソン・ルーダー
- 脚本:スコット・シルバー、トッド・フィリップス
- 撮影:ローレンス・シャー
- 美術:マーク・フリードバーグ
- 衣装:アリアンヌ・フィリップス
- 編集:ジェフ・グロス
- 音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
- 出演:ホアキン・フェニックス、レディ・ガガ、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナー 他
物議をかもしたトッド・フィリップス監督による映画「ジョーカー」の続編。
主演は再びホアキン・フェニックスが続投。今回は、ジョーカーが出会う謎の女性リー役として、「ハウス・オブ・グッチ」など映画界での活躍が続くレディー・ガガが新たに参加します。
脚本は前作同様、スコット・シルバーが担当し、撮影のローレンス・シャーや音楽のヒドゥル・グドナドッティルなど、アカデミー賞受賞スタッフが続投。
前作はベネチア国際映画祭で金獅子賞、第92回アカデミー賞で主演男優賞を受賞するなどとても大会評価を得ていますから、その続編ということで非常に大きな期待を寄せられていました。
しかし実際のところ、北米での試写の時点でかなりの低評価を漬けられてしまい、その前評判自体がきいてしまったのかは分からないものの、興行面では大いに苦戦をしているようです。
製作費の回収も難しいながら、公開2週目での前週からの興行収入下落は80%異常と逆にニュースになってしまっています。
~あらすじ~
ピエロのメイクを纏い、自らをジョーカーと称し、生放送中のテレビ番組で司会者を銃殺したアーサー・フレック。
ジョーカーとして社会の歪みを体現した彼は、5人の殺害の罪で収監されており裁判を待っている。ゴッサムの街では、ジョーカーを社会に虐げられた者たちの象徴であり、復讐者としてあがめるような動きもあり、アーサーの裁判は街の中心的な話題になっている。
アーサーは更生プログラムの一環として音楽を使ったセラピーを受けるが、そのクラスでリーという女性と出会う。彼女はジョーカーを信奉し、二人でこの収容所を逃げ出そうと誘うのだ。
アーサーは初めて自分を愛し、拠り所となる人に出会ったことで希望を見出していくが、ある時リーは突然出所してしまう。
戸惑うアーサーであったが裁判が始まることになり、外の世界からリーが応援していることを知ると法廷で再びジョーカーとして登場することを決意する。
感想レビュー
タイトルの意味は共有される妄想と狂気
タイトルにある「フォリ・ア・ドゥ(Folie à deux)」とは、フランス語で「二人の狂気」を意味し、感応精神病と呼ばれる現象を指します。
これは、1人が抱く妄想や精神的な異常が、密接な関係にあるもうひとりの人物に伝染し、二人または複数人が同じ妄想を共有する状態。
精神医学における特異なケースとして知られており、共同で幻想や妄想に取り憑かれることが特徴とされています。
今作ではジョーカーに感化されたリーが、彼に親密に、ある意味狂気的に心酔していくことと、それを受けたアーサー・フレックによる妄想がベースにあると言えますね。
三角関係
今回の作品はアーサーとリーの物語でありますが、実はそこに登場人物としてあげたいのがジョーカーです。
2人の妄想の世界ではあるものの、実は妄想世界を見ているのは常にアーサーであります。リーの妄想世界が示されている気はしません。リーはむしろ、ずっとジョーカーを見ている。
とするならば、今作はアーサーとジョーカーとリー、3人の関係性を見ていく映画のように感じました。
前作では孤独に追い詰められたアーサーがジョーカーという分身を生み出した話ですが、その分身は独り歩きをし始めて、アーサーのコントロール外になっていく。
リーはジョーカーを愛しているため、アーサーはリーに愛されたという気持ちになりつつ、根本的な掛け違いが起こっているのが今作の肝です。
自身の影であるジョーカーに飲まれ虐げられるアーサー
映画が始まるとすぐに、短編のクラシックテイストなカートゥーンが始まります。タイトルは”Me and My Shadow”(俺と俺の影)。
ここではTVに出演する準備をするジョーカーが描かれており、大スターとして控室に入ると、自分の影が自我をもって彼を襲い、衣服を奪ってメイクをし、本人に成りすましてTVに出て行くという内容。
TVで喝采を浴びた影はジョーカーとして悪事を働きまくるのですが、あとから駆け付けたジョーカーにすべての罪を擦り付けて消え、ジョーカーは警官隊に袋叩きにされてしまうというモノ。
今作におけるアーサーの顛末はすべてがここに集約されています。
アーサー・フレックは自身の影の存在としてジョーカーを生み出したのですが、それはゴッサムの中で肥大化し、アーサーの意図しないところで偶像化、神格化されていく。そしてジョーカーはあまりにも独立して愛されてしまったゆえに、アーサーではなくなる。
脚光を浴びているのはジョーカー。アーサーではない。
しかし、ショーの中でのジョーカーの行為はすべてアーサーに返ってきて、裁判所でジョーカーを演じて看守たちを侮辱すれば、アーサーとして振舞っても彼らに袋叩きにされてしまうのです。
皆が愛しているのはジョーカー
そして何よりも悲しいことに、ジョーカーは愛されているけれど、アーサーは愛されていない。
アーサーはやっと、影にいた自分自身をみんなが見てくれて、そして女性が自分を愛してくれていると感じたのに、それは幻想でしかなかった。
リーが愛していたのはジョーカー。
だから彼女はアーサーに触れるとき、自分で彼の顔にメイクを施す。キスするときにも、面会室でガラスを隔てているときも。
それはまるで、リーはアーサーという男には興味がなく、ジョーカーを欲しているというジェスチャーのようです。
惨めなアーサー・フレックを誰も知らない
結局アーサーという男はやはり何者でもなかった。
皆が熱狂したジョーカーはアーサーではない。みんなが求めるジョーカーになろうとしても、それはアーサー自身ではない。自分が自分らしくあることなんて、求められていない。
「ノック、ノック。」「どちら様?」「アーサー・フレックさ。」
「アーサー・フレックって誰?」
これにすべてが詰まっているのです。もはやジョーカーであることが難しいアーサー。これはありのままのアーサー自身ではないから。
かつての仕事仲間に、アーサーらしいとはどういうことなのか、別人のようだとはどういう意味か聞きだしているシーン。
裁判としては人格の障害とかの証明を得ようとしているように見えますが、実際のところ、アーサーという男がどんな人間だったのか、他人の口から証言してほしいのでしょう。
みんなはアーサーに興味がない。ジョーカーとアーサーを切り離そうと弁護士が奮闘するほど、アーサーのみじめな生活や人生がさらされていき、徹底的に持たざる者であることが強調される。
母との暮らしにそこでついていた嘘。女性経験のなさにストーカーまがいの行為。ここまで人を辱めるのもきついですけど、だからこそアーサーが崩壊していく。
観客が求めているのは・・・?
そしてそれは映画と観客の構造にも重なっていると感じます。
あんまり評判が良くない今作。悪のカリスマであるジョーカーがどんなことをするのか期待していた観客に対して、期待されるようなジョーカーは現れない。出てくるのはアーサー。
でも観客もアーサーなんて見たくなくて、DCコミックの犯罪の天才王子ジョーカーが見たかったのです。
最終的にはアーサーはジョーカーではなくて、彼をめった刺しにして殺したサイコパス野郎が自分の口を裂いている様子から、そちらがバットマンと対決していくジョーカーのようですね。
ミュージカル要素について、レディーガガの圧巻のパフォーマンスは発揮されていますし、ホアキンの方はほとんど話しかけているように歌いだしていて独特であったり、見どころにはなっています。
個人的には前作にそこまで熱狂していないのでニュートラルな感じで観ていますが、ハマった人ほど拍子抜けしてしまうのかもしれません。
個人的には善さ卯と続編というよりも、今作とセットで一つの物語になっているように思えて、それはそれでいいなと思いました。
何かと話題の今作、気になる人は劇場へどうぞ。
今回の感想はここまで。ではまた。
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