作品解説
『ジュラシック』シリーズ最新作が始動
1993年、スティーブン・スピルバーグが生み出した第1作「ジュラシック・パーク」から始まり、これまでに6作品が世界的大ヒットを記録してきたシリーズ。その通算7作目となる最新映画が、ついに新章として幕を開けます。
前作から5年後の物語
舞台は「ジュラシック・ワールド 新たなる支配者」から5年後。恐竜と人類が共存を模索する中、新たな危機が訪れます。物語の中心には、シリーズ初となる女性主人公・ゾーラが登場。
豪華キャスト陣
- スカーレット・ヨハンソン(「アベンジャーズ」シリーズ、「マリッジ・ストーリー」)
- マハーシャラ・アリ(「グリーンブック」、「ムーンライト」)
- ジョナサン・ベイリー(「ブリジャートン家」「フェロー・トラベラーズ」)
- ルパート・フレンド(「ヒットマン:エージェント47」、「パトリオット・デイ」)
制作陣とスタッフ
- 監督:ギャレス・エドワーズ(「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」「ザ・クリエイター/創造者」)
- 製作総指揮:スティーブン・スピルバーグ(シリーズ原作者)
- 脚本:デビッド・コープ(「ジュラシック・パーク」「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」)
〜あらすじ〜
熟練の特殊工作員ゾーラ・ベネットは、信頼する傭兵ダンカン・キンケイド、古生物学者ヘンリー・ルーミス博士と共に、初代「ジュラシック・パーク」の極秘研究施設が眠る禁断の島へ向かう。
そこはかつて、所有者が密かに実験を繰り返し、“最悪の種”と呼ばれる20種類以上の恐竜が生き残った、地球上で最も危険な場所だった。
彼らの任務は、心臓病の画期的な治療薬の開発に欠かせない、陸・海・空を支配する3種の恐竜のDNAを採取すること。
迫り来る恐竜の脅威と死地を越え、ゾーラたちは危険極まりないミッションに挑むことになる。
感想レビュー/考察
完全新キャストで始まる新しい恐竜物語|過去作未視聴でも楽しめる
いわゆるジュラシックシリーズ。
元々はスピルバーグが生み出した記念すべき1作品目の続編シリーズでしたが、10年前になる2015年に改めてリブート的な位置づけで「ジュラシック・ワールド」シリーズが展開。
クリス・プラットが主人公として、アクションを強めにしながら3作品を展開し、一応は完結ということになりました。それが再びの再始動ってことで、現代にはRebirthとあるように本当に生まれ変わることになりました。
キャストも完全に一新され、ジュラシック・ワールドというタイトルではあるものの、また別のシリーズが始まったという認識で良いでしょう。
なので、これまでの6作品を観ていなくても全く問題ないことになります。
生命倫理と科学技術、商業主義の衝突
心機一転で送り出した今作ですが、突き詰めていくと1作品目に戻ろうという原点回帰を感じます。
それは映画的にという面でもそうなのですが、もともとの原作であるマイケル・クライトンの小説のテイストに寄せて行こうという想いを感じました。
もともとのマイケル・クライトンの小説は、恐竜アドベンチャーというよりも自然の混沌とした強大さとそれを操作しようという人間の軽薄さを描いたものです。
「生命は必ず道を見つける」”Life finds a way”という言葉の通り、科学の力でいかように命やその融合と想像を支配下に置こうとしても、結局は生命の神秘というモノはそのような人間の矮小な技術を超越するということ。
今作ではその失敗の結果放置されている区域において、再び恐竜のDNAや血液から人間の心臓病克服のための薬を作ろうというのがベースにあります。
しかし、そこでもやはり生命倫理よりも先行した科学の最悪の結果が具現化した形となり襲い掛かってきますし、あらゆる事態を統制下におこうとして失敗し続ける。
さらに、主人公のゾーラは傭兵であるために、その目的や手段はどうでもいいのでお金が手に入ればいいという、科学と倫理に、商業やビジネスが絡みます。
まさにジョン・ハモンド氏が初代ジュラシック・パーク開設に踏み切った背景にあたる、生命倫理VS科学技術VS商業主義がここでも込められているということになります。
まあ、だいたいのジュラシックシリーズは根底にこれがあるのですが、今作は特に原点に立ち返ろうという姿勢が見えました。
海・陸・空を股にかけた恐竜アクションとシリーズ名シーンへのオマージュ
更生的には海、陸、空のそれぞれの恐竜から血を撮ろうということで、不自然ではない形でそれぞれのステージを移動しながらミッションをこなしていく。なので、ビジュアル的にも恐竜の種類的にもバラエティが確保されていたと思います。
最終幕にはほとんどエイリアンになっているDレックスという化け物まで出てきますから。
初代のあのブラキオサウルスのシーンを思い出させるようなティタノサウルスのシーン。草原の中でふとあのラプトルのシーンを思い起こしながらも、ゆっくりと上がるしっぽの大きさからみせつつ、グッとその本体の巨大さをスクリーンに映すシーンは圧巻。
まあ個人的にはこの恐竜の実在性に対しての感動のシーンは、やはり最初に持ってくる方が効果的ではある気もします。
「本物の恐竜だ。。。!!!」ってヘンリーも含めて涙して感動しますけど、いやいや、あんたら散々モササウルスとスピノサウルスに襲われたじゃん、ってなりました。
島に来るという上では海⇒陸なので仕方ないのですが、恐竜を間近に感じているという意味での流れとしては微妙に感じました。
構成で気になったのはそのくらいですかね。
人物描写の不自然さが目立ち、共感できないキャラクターたち
むしろ、人間たちの描写に関してはかなり気になってしまったというか、残念でした。
物語の進行の都合上なのか、まずバカが多すぎる。
もちろん、滑って転ぶとか、どこかから落ちるとか、何らかのピンチにはまっていくことが、パニックホラー的には必要なのは分かります。でも、それがあまりに物語振興のためのアホらしさが目立ちすぎていると感じます。
その所作や行いにイライラするし、面白くない。また、だからこそ正直°の人物に関しても自業自得感が強くてどうでもよくなってしまいます。それが致命的。
こういう場合には、死んでいい起業家以外について、研究者の主人公も、都合よくはぐれ続ける謎の家族も、観客は身を案じなければいけません。
でなければ、ホラーもスリルもないからです。
しかし、海で散々恐竜に襲われたあげく海岸に着いたと思えば、水陸両生のスピノサウルスなどいなかったかのようにのんきに荷物を動かそうとしたり、、、
アホは放っておくしかない。
終幕でのダンカンの描写はきわめつけて支離滅裂でした。
Dレックスというクローバーフォールドのモンスターかタイタンの戦いのクラーケンか、もしくは出来損ないのランコアみたいな恐竜の下り。
Dレックスをゾーラたちから引き離すためにダンカンが発煙筒を使い囮になります。明確に、「こいつは光に反応する。」といっています。
そしてダンカンは水に中にはいり、Dレックス追いかけられ、目の前まで迫るところでカット。
ダンカンの犠牲によりゾーラたちはボートで脱出できました。
と思ったら、ボートを走らせていると大きな明かりがともされる。発煙筒がたかれるのです。
そしてそこには無事生きていたダンカンが。
は?
あの状況でどうやって生き延びたのかもよくわかりませんが、光に反応すると言っておいてその発煙筒は何なんでしょう。
ダンカンが生き残るべき理由もプロット上に見えないことも含めて心底意味不明でした。
原点の言葉を返す:本当にこの続編は必要だったのか
オリジナルの初代脚本家が参加し、原点回帰を目指している作品ではありますが、やはりもう一度よく考えるべきです。
「自分たちにできるかできないかだけを考慮し、やるべきなのか考えなかった」
この有名なジュラシック・パークの言葉をそのまま返します。
作ろうと思えばなんとでも言って続編は作れるはずです、しかし、本当にやるべきなのか、描くべきことがあるのかを考えるべきと思いました。
すごく皮肉なことを言ってしまうと、商業的な面で稼げるからという理由で、この映画シリーズをまだ使い倒そうというその製作側の行為自体が、映画のテーマにつながっている。
恐竜映画が絶えないこと自体は、文化的にもそういう中で育った子供であった個人としてもいいことだと思いますが、一方でやはり無理くり作り続ける意義は感じられない作品でした。
否定的な感想になりますが、今回は以上です。ではまた。
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