作品解説
孤独な少年とエイリアンが紡ぐ感動のSFアドベンチャー
「トイ・ストーリー」、「リメンバー・ミー」、「インサイド・ヘッド」など、世界中を魅了してきたディズニー&ピクサーによる最新長編アニメーション。
舞台は何光年も離れた“星々の世界”「コミュニバース」。孤独な少年エリオと、心優しいエイリアン・グロードンが出会い、宇宙を巡る冒険と友情の物語が幕を開ける。
ピクサー黄金チームが贈る最新作
監督は、『リメンバー・ミー』のストーリーアーティストを務めたマデリン・シャラフィアン、『私ときどきレッサーパンダ』のドミー・シー、そして『リメンバー・ミー』で脚本・共同監督を務めたエイドリアン・モリーナ。
想像力あふれる映像表現と、心を打つストーリーテリングが融合した作品となっています。
キャスト情報(出演者と代表作)
- ヨナス・キブレアブ:「あの夏のルカ」「ビカミング・エリザベス」など
- ゾーイ・サルダナ:「アバター」シリーズや「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズなど
- レミー・エジャリー
~あらすじ~
両親を亡くし孤独を抱えるエリオは、軍人の叔母のもとで暮らしているが、宇宙への夢を一人で描きながら過ごしている。
彼は何光年も離れた星々へ旅立つ日を夢見て、毎晩のように宇宙へ思いを馳せていた。きっと輝く星のどこかに、自分の“本当の居場所”がある。そう信じているエリオだが、抱え込んで人と関わらないかれを叔母は心配している。
そんな時、人類が宇宙へ送り出したボイジャーを宇宙人が回収し、返答のメッセージを送ってきた。
信号を軍部は無視したが、エリオはこっそりとそれに返信。それをキャッチした宇宙人によって、エリオは銀河中の星の代表が集う不思議な世界「コミュニバース」に招かれる。
そこで出会ったのは、心優しいが孤独なエイリアンの少年・グロードン。二人はすぐに心を通わせ、かけがえのない親友となる。
感想レビュー/考察
制作段階での大幅な方向転換
今作は、制作中に大きな方針転換を経験したピクサー作品です。当初の監督エイドリアン・モリーナは同性愛者を公表していて、主人公エリオをクィアにした個性的なキャラクターとして描いていました。
代表的な場面には、浜辺で拾ったゴミをピンクのタンクトップなどに作り替える「トラッション・ショー」がありましたが、経営陣の判断により、このクィア要素や環境・ファッションへの情熱を直接描くシーンは削除されました。
結果、より無難な人物像に変更されているとのこと。
監督交代と再構築の舞台裏
試写会での反応や社内評価を受け、モリーナはプロジェクトから離脱。後任としてマデリン・シャラフィアンとドミー・シーが監督を引き継ぎ、大規模な再構築が行われました。
この変更に伴い、多くのオリジナルメンバーが離脱し、「作品の核心が失われた」という声が社内外で相次ぎました。
実際にはメンバーの離脱とこの作品方向性の変化には関係がないという声もありますので、実際のところは明らかになってはいないと思われます。
薄れた独自性と賛否両論の評価
公開版では、当初のクィア要素や個性が薄まり、関係者からは「意味のない作品になった」との批判も。
一方で、批評家からはRotten Tomatoesで81%の高評価やシネマスコアAを獲得し、子ども向けSFとして一定の支持を得ました。しかし、興行収入はピクサー史上最低の初動となり、商業的には厳しい結果に終わっています。
日本でも鬼滅の刃とか他の洋画作品に押されているのか、そこまでの伸びってわけではないようです。
エリオというキャラクターが抱える孤独と閉ざされた心
いろいろと背景情報が複雑な映画なのですが、その変換のせいともそうではないともいえるのが、エリオの造形だと思います。
正直言って、嫌いだっていう人も出るのではないかと。
今作のOPから、エリオは独りですべてを処理して抱え込もうとする。それが前提に会って、決して周りと関わろうとか頼ろうとしない。だからこその衝突もあるし、彼自身の振る舞いに問題をも感じてしまいます。
そのすべてにおいて、イライラしてしまう。
それは叔母が感じることでもあるので当然なのですが、背景と根底の気持ちをうっすらでも感じ取れないと、本当に迷惑な子どもに映ると思うのです。
失った家族と揺らぐ「自分らしさ」
カギとなるのは、環境と巧く付き合えない孤独さとか、一人っ子らしいような自分で1~10まで管理完結させないといけないという気持ち。
エリオは自分の世界観と価値観をかなり早い段階でくみ上げたのでしょう。繊細で熱中する。でもそれを見てくれていた両親が突然いなくなってしまった。
悲しみと寂しさは増幅し、自分の持つ世界つまり自分らしさ(それはつまりエリオ自身の価値といっても良いでしょう)すら揺れ動いてしまう。
だから、そこにもう周囲に助けを求める余裕もないんです。それが、すごく身勝手に見えてしまうのでしょう。
最初のシーンでテーブルの下にいて。その後もボイジャーの解説が聞ける部屋で床に横たわって。
自分だけで遊んで、自分だけで完結させる。させなくてはいけない。そんな責任感のようなものすら感じます。
監督自身の体験が生んだリアルな背景
マッチョな軍人の世界にいやおうなく触れているであろうエリオの姿は、もともとの案を出しているエイドリアン・モリーナ監督の実際の経験に紐づいているとのこと。
アートな志向の強い少年だったモリーナ監督が、実際に父の仕事の関係で軍のキャンプで過ごしたこと。それはエリオの、住むべきではない世界にいる感覚にリンクしているのでしょう。
幼少期の孤独と誤解されたエリオの存在感
そんなわけで、幼少期にそういった経験や気持ちを抱えたことがない場合には、単純に手間がかかって何考えているのか分からず、そしてなぜか人を寄せ付けない身勝手な子どもに映ってしまうとは思います。
でも私には刺さりました。
趣味趣向や性格、人としてのスタンスが違う場所で生きる幼少期ってマジで辛いものです。自分の中の価値も好きなものもできることも、すべて意味のないものとされますし。
それがエリオにとっては宇宙への逃避的な思考になります。さらにはコミュニバースという世界に触れて、自分の本来生まれるべき場所を知る。
モリーナ監督がカリフォルニア芸術大学に入った際の気持ちも投影されていると言いますが、実際に変な人がいて、それでいいのだって知るときって嬉しいもの。
エリオがコミュニバースに入り、そこには嘘がありながらも生き生きとして過ごすのは楽しいものでした。
映画の時代設定と映像美が伝える世界観の対比
ちなみに、それまでの地球でのシーンは、時代設定も70年代とかでしょうかね。ボイジャーのゴールデンディスクを搭載したものの打ち上げが1977年ということなので。
映画全体のルックがアナモルフィックレンズ(もちろんフルCGアニメなので、デジタル的にそれを再現しているだけですが)での撮影になっています。シネスコ的な、横長の感じと少しボヤ着いた色彩とか。意外に良いルックと触感を持っています。
それが宇宙に出てコミュニバースに行けば、もはや地球上の造形や世界観とはガラッと変わったカラフルさやシェイプに包まれます。
クリアでエッジの効いた画面に変換され、そういう意味でもエリオが感じ取る興奮と未知の世界の楽しさが映像手法に出ていると言えます。
モンスターなのに愛らしい、奇跡的な造形描写のグロードン
未知との遭遇とかもかなりオマージュされる宇宙で、この映画はバディムービーに変わります。
今作が最高なのはそこ。私がこの作品を好きなのも、そのバディの要素とエリオの親友になるグロードンというキャラクターの存在です。
ワームの造形で多足、目がなくて口を開くと鋭い牙が何重にも生えている。粘液で構成した糸をはいて絡み取る。そんなザ・エイリアンなモンスタールックのグロードン。
しかしこれはが可愛すぎる。ほんとうに。
そのルックに嘘をついていないのに、動きと声と描写で本当にかわいく見せてしまうってとんでもないことです。奇跡的なバランスをもって映像化している。
レミー・エジャリーの声の演技が可愛いし、目がないから口から水を溢れさせて泣いていたり。寒くて丸くなったり。とにかく可愛い。
誰かの期待に応えられない痛み
グロードンはエリオに似ていてマッチョな世界に生まれた子ども。自分自身の運命が、残虐な武力制圧の新兵器として、強力なアーマーを身にまとうことであると知りつつ、心優しい彼はその運命を呪っています。
グロードンもまた、自分自身が場違いな場所に生まれていると思っているのです。
エリオはグロードンと仲良くなっていきながら、地球に送り込んじだ自分のクローンが、叔母のオルガと過ごす様子を垣間見て、決定的なことを感じ取ってしまう。
そこにはエリオとは違って社交的で、叔母の手伝いをして”良い子”なエリオがいました。
それを見て、エリオは最後の少しの希望すら失います。自分を求めているのはやはりこのコミュニバースだけなんだと。地球にいても求められているように感じていなかったエリオ。いなくなったときにその反応で自分の価値が分かるだろう。
そして結論として、宇宙が好きで、風変わりな趣味を持っているエリオは、求められていなかった。
自分がもっとこうだったらーーー。叔母は違う人生を歩めたのかもしれない。勇敢な息子だったら、父さんは僕を誇らしく思えたのに。
子どもの頃、いや、ある程度大人になってからでも。親に対してそんな感情を抱いたことがある人なら、このエリオとグロードンの痛みが染みると思います。
自分という存在のせいで、親に迷惑をかけているんだって、あの気持ちですよ。
宇宙で世界を知り、故郷を理解する物語
それらが収束していく際に正直言ってかなり多くの要素を放り込みすぎているのだとも思っています。
宇宙に行って世界を知り、そしてだからこそ故郷を理解できる。そして地球へ帰ってくる。
不完全さを表すように、エリオにはアイパッチがされていますが、それを含めて全部がエリオ。エリオ語を叔母が理解していたこと、それほどまでに彼を愛していたこと。
このあたりからグッと来てしまいますが、私はグロードンと父のグライゴンの下りが最高に感動しました。
グライゴンが掲げ続けてきたのはマッチョの象徴たる武力。しかし、弱り切ったグロードンを見た後の流れ。そこにはセリフもなく、ただ父親の行動だけが映される。
あの種族が成人したらその象徴として決して脱がないという鎧をあっという間に脱ぎ捨てて、息子を抱きしめて温める。言葉を一切発せずに見せる行動だけで、父の深い愛が分かります。
ピクサーの力はまだ衰えていない
「E. T. 」的な出会いと友情に重なり、自分自身が居場所を持てずにいることとか存在に価値を見出せないこと。
それを非常に豊かな映像表現で、現実的な70年代のアメリカの様子から創造的なコミュニバースの世界にまで広げて描きこんだ。
製作においていろいろとあったとか、オリジナル版がどうとか、私はどうでもいいほど好きです。とてもいい作品だと思いました。
ピクサーも苦戦するんだっていうことは、近年の興行収入とかで示されていますが、今回の現実的な世界とコミュニバースの広がりを同居させ、グロードンという最高のキャラを成立させたその力は、まだまだピクサーの世界を生み出す力が衰えていないことの証明だと思います。
いろいろな作品の陰に隠れていますが、非常におすすめの作品です。
今回の感想はここまで。ではまた。
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