「クロニクル」(2012)
作品解説
- 監督:ジョシュ・トランク
- 脚本:マックス・ランディス
- 原案:マックス・ランディス、ジョシュ・トランク
- 製作:ジョン・デイヴィス、アダム・シュローダー
- 撮影:マシュー・ゼンセン
- 編集:エリオット・グリーンバーグ
- 出演:デイン・デハーン、アレックス・ラッセル、マイケル・B・ジョーダン、マイケル・ケリー、アシュリー・ジェンセン 他
ジョシュ・トランクが初監督し、一躍有名になるきっかけとなった作品。
スーパーヒーローオリジンとか、ひとつのティーネイジャードラマとして高い評価を受け、新鋭の監督として名乗りを上げましたね。その後はなんか・・・
F4とかでモメちゃったんですが。
主演しているのは、これまた注目株デイン・デハーン。この頃は「欲望のバージニア」やら「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」そしてそのあと「アメイジング・スパイダーマン2」と、スターダムだったなぁ。
そして今や誰しも知っている、「クリード チャンプを継ぐ男」、「ブラックパンサー」のマイケル・B・ジョーダンも出演しています。
学生の頃すごく見たくて、実は公開規模がめちゃ小さかったんですよ。
当時はまだ日劇で、2週間限定とかでやっていて、夜観に行きました。噂を聞いた映画ファンとか結構込み合っていたのを今でも覚えています。
~あらすじ~
アメリカ、シアトル。カメラが趣味の高校生アンドリューは、病気の母そして飲んだくれで暴力的な父と暮らしていた。
家庭は最悪で、アンドリューは学校も楽しくなかった。いじめっ子が絡んでくるし、彼には友人もいなかったのだ。
いとこのマットはアンドリューを気にかけ、学校まで車で一緒に通うのだが、アンドリューは正直ほっといてほしいとすら思っていた。
そんなある時、マットに誘われて行ったナイトパーティで、学校の人気者スティーヴとマットが奇妙な穴を見つける。
その奥には奇妙な水晶体があり、3人はそれに触れたことから、超人的な力を芽生えさせ始めるのだった。
感想レビュー/考察
新鋭の監督として現れたジョシュ・トランク監督の低予算なインディー作品ですけども、そのアイディアとか作品テーマの統合が見事なものです。
この作品は、ファウンドフッテージの手法を全編にわたってとっています。
誰かが自撮りした映像データを繋ぎ合わせてひとつの映画にしているんです。
まあその自撮り風の映像をいろいろな視点に切り替え、終盤は監視カメラとか中継のカメラにまで及ばせていて、いわゆるカメラの視点をモロに感じさせながら、しかし同時にそれは映画作品内の誰かが撮影しているので違和感がないという感覚になっています。
映像体験として、手振れがあったり、普通に人物がカメラ目線になったりもリアルな日常感覚で面白いんですが、しっかり作品のストーリーテリングとリンクしているのが、とても巧妙で上手いなと思ってしまいます。
アンドリューら含めて、カメラをいつまで手で持っていて、いつから能力で操っているのか、そしてカメラの扱いがどれだけうまく、つまり能力のコントロールがうまくなっているのかまで込みで、この撮影法が活きているんです。
ふとした瞬間に、もう手を離れてカメラが浮いていると気付けば、それだけアンドリューの能力を操る力の上達が見えるんですよね。
ですから、単純にリアルさを追求しただけの手法ではなく、ある意味彼らを映し出す上ではこれが最適ともいえる撮り方なんです。
さて、そこで画面内に映し出される描写も、とても良く演出されていました。
全体的にはただの高校生なんです。
大きな命題もないし、使命もない。大人の世界に巻き込まれるわけでもなく、この作品はただ超能力とそれを手にした普通の少年たちを描いています。
彼らが能力の範囲を探ってみたり、バカなことばっかり延々やっているんですが、その思い付く遊びの範囲含めて素晴らしいなと思います。
力はスゴいですが、それ以外は自分も友達とやったようなことばっかりで、話をあえて大きくせず共感できるようにしたのは効果的かと思います。
彼らみんな普通で、つまり誰もおかしくも悪くもないことが、今作の悲劇性を増すからです。
デイン・デハーンがハマったアンドリュー。
母は病に倒れ、父は飲んだくれて怒りを全て彼にぶつけ、近所にはチンピラがいて学校にはいじめっこがいる。
戦えないし、母を救えもしないことが、どれほど彼に無力さを感じさせていたか。
そこに周囲どころか人類を超えた力を得たのです。環境に対する反応として、やはりアンドリューのしたことは許されないかもしれないけど、彼を非難はできなかったです。
大人じゃないからの無力さに似ている気もしますね。アンドリューだけは、環境から求められるタフさや力が他の子と違ったんです。
なんでもできる感覚を覚える10代後半。
遊び回っていた、あんなに楽しかったのに、アンドリューは一線を越えてしまう。
彼の絶望は非常に苦しいものです。
力によって救われたように思えて、それは彼に決定的な一撃を与えたんですよね。力がなければ無だと。
力がなければ人気はなかったし、何よりマットとスティーブという友人を得ることもなかったでしょう。
自分自身には結局何もないという思いが、彼を叩きのめしたんですね。
そもそもなんでアンドリューは自分の全てを撮影しようとしたのか。考えてみると余計に悲しいです。
彼は誰にも見られていなかった。
彼の良いところも、それ以上に彼の生も。生きていること、存在していることを誰にも見られないなら、いないのと同じなんです。
だから自分で自分の記録を残し、確かにアンドリューという少年が生きていたことを証明したかった。
スペースニードルの上、文字通り頂点に登ったアンドリューが、その力でやったことは、自分の周りにスマホを並べて自分を映すことでした。
何かとすぐ自分たちを撮り、記録に残す現代において、その潜在的な悲しさを浮き彫りにされた気がします。
何かにすがって依存して、自己承認欲求だけが膨れ上がって満たされない。
失うことが怖いのに、それ以上を求めてしまう。
10代の頃ぼんやりとでも不安だった人にはぶっ刺さります。
いつになっても、ふと思い出す作品。
いつでも楽しかった3人と、誰も悪くないがゆえに切ない最期を噛み締めて。
アンドリュー、マット、スティーヴの3人は常に自分の中で生きています。
この作品を見た人だけでも、この若者たちの生を覚えているのです。
大層なことはない、でもそれが高校生らしく。
自撮りの手法が全編おもしろく、同時に人物を描く上で必然になっている。
そういう点で、かなり心のこもった作品でした。今は廉価版Blu-rayもありますし、是非観てほしい作品ですね。
感想はこのくらいです。
ジョシュ・トランクはその後アレですが、こういう作品をまた作ってほしいですね。それでは。
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