「クリード チャンプを継ぐ男」(2015)

  • 監督:ライアン・クーグラー
  • 脚本:ライアン・クーグラー、アーロン・コヴィントン
  • 原案:ライアン・クーグラー
  • 製作:シルベスタ・スタローン、アーウィン・ウィンクラー、チャールズ・ウィンクラー、ロバート・チャートフ、ウィリアム・チャートフ
  • 撮影:マリス・アルベルチ
  • 編集:クローディア・S・カステロ、マイケル・P・ショーヴァー
  • 音楽:ルートヴィッヒ・ヨーランソン
  • 出演:マイケル・B・ジョーダン、シルベスタ・スタローン、テッサ・トンプソン 他

1976年公開の「ロッキー」。シリーズは6作目の「ロッキー・ザ・ファイナル」(2006)で一応の終わりを迎えたんですが、今回はスピンオフ兼リブート的な立ち位置を取って再びスクリーンに帰ってきました。

監督には「フルートベール駅で」(2013)で高い評価を得たライアン・クーグラー、主演は同作品でも組んでいたマイケル・B・ジョーダン。

新人監督自らが持ち寄った原案に、スタローンも出演承諾したようで、シリーズの伝統や過程を大切に持ちながら、ここにまた新たな闘志を吹き込んだ作品となっています。

公開日に行きましたが、小さいスクリーンで人はそこそこ。ってことは大部分ははるか彼方の銀河系に行っているのかなぁ。あ、ロッキーシリーズを観てなくてもまあ良いですが、やはり1~4くらいを観ておくと良いでしょう。

かつてボクシング界の伝説であり、ライバルで親友でもあった、ロッキー・バルボアとアポロ・クリード。

アドニス・ジョンソンはそのアポロの息子であるが、生まれる前に父は死んでおり、愛人の子であることもあって父の記憶は持たなかった。

アドニスは荒れた幼少期から、アポロの妻のメアリー・アンに引き取られ学を受けて会社員となる。

しかし、父の血が騒ぐのか、アドニスはリングこそ自分の場と感じる。場末での試合を繰り返し、ついにボクサーとしての人生へと進む。

そして彼はトレーナーになってもらうため、ロッキーに会いに行く。

ロッキー、つまりはボクシング。スポーツ映画はルックが大事。

そう思っているので今回のファイトの描写には圧倒されっぱなし。もちろんマイケル・B・ジョーダンの鍛え上げられ、絞られた肉体もさることながら、その迫力を活かしきる撮影に感服です。

撮影監督のマリス・アルベルチは「レスラー」(2008)でもリング内での撮影で迫力ある肉体のぶつかり合いを見せてくれましたが、今回はさらに演出も入り気合十分。

始めのレオとの試合の、開始から2ラウンド全ワンショットには度肝を抜かれます。あそこまでの至近距離に入り乱れる位置関係。さらに激しい打ち合いをしつつ見やすく撮る。

試合中はマジで当たってる?というほどの汗や皮膚の揺れ動きにすさまじい闘いの臨場感を感じます。スローでダウンするシーンがありますが、体が硬直し無抵抗にマットに沈むのがとにかくリアルで、本当に俳優が失神したのではというくらいでした。

医療器具を準備するカットや、洗い流される血がマットを伝う様なども真実味を増す演出ですね。

もう、見た目で高評価!

さて、見た目が本物ならば、もちろん後は中身の問題。

しかしこれまた素晴らしい。やっていることとしては、ロッキー1の繰り返しでもあるように思えます。試合組の流れや試合展開はまんまですからね。

それに音楽やセリフなど随所に過去作のリスペクトやオマージュが出てきますしね。ファンならぐっとくるポイントです。ただ、同じことを繰り返すサービスではなく、今作においては自分の証明という課題があります。

アドニスの抱え続ける孤独な戦い。父の名を継ぐのか継がないのか、それ以上に自分が何者なのか。彼はクリードを隠し、母の性であるジョンソンを名乗っていますが、だからといってクリードと切り離されてはいません。

どこにいても常に付きまとう父の名と、もはや自分自身でもそれに近づいているアドニス。

これまた撮影の面白いところですが、アドニスがロッキーに初めて会うシーン、また彼がチャンプのエージェントである男と会うシーン。ロッキーの経営するレストランで会話するんですが、アドニスは常にあの「ロッキーVSアポロ」の写真を背にして画面に出ています。

対してロッキーはエイドリアンの写真を背後に出てきますから、常に過去の愛しい人を引きずっているんですね。よたっとしていて、相変わらず口数少なめで、不器用なロッキーが年を取ってそこにいる。この描き方だけで観てよかった。

「鏡に映る自分が相手だ。打てば相手も打ってくる。大事なのはどれだけ強く打てるかじゃない、どれだけ強く打たれることができるかだ。」

アドニスは無意識にも、常にクリードを背負っていたのでしょう。

公式戦でもクリードを名乗らず、愛する彼女にも告白しない。しかし父の試合のビデオは観るし、そもそもボクシングという否応なしに父を思い起こさせる世界へ踏み込んでいます。

常に受動的にクリードと呼ばれていた彼は、いまだそれを受け入れられない自分を前に檻の中にいるのです。遅かれ早かれ分かることなのに、逃げて生きている。

それゆえか、やがて失われる聴覚に対し受け入れつつも、しっかり向き合って生きいる彼女との最初の打ち解けるシーンでは、逆さのショットになっているのかなと思います。

そしてロッキーのほうは、すべてを失くし、生きる意味を見いだせていない。エイドリアンの墓を訪れる哀愁たっぷりのスタローンに涙です。

2人は共に闘う。熱い特訓シーンは、まさかの病院でのトレーニング。しかしこれは常に共に闘っているんだということの視覚的な体現ですし、2人の友情がとてもいいですね。

ロッキーの真摯な説得と父の影からの脱却を推され、ついに前に進むアドニス。留置場の金網をとらえていたカメラは、ふとその奥に見える外の世界へとフォーカスを変えます。

そして迫力の試合において、ここぞと流れる音楽、ここぞとカットの入る伝説のアポロ・クリードの雄姿。その生まれ持ってのファイターの血が、アドニスを目覚めさせるシーンはもう最高に熱い。

さて、”過ち”でも”偽り”でもなく、真の意味でのクリードの血を受け継ぐファイターとして自己証明して見せた、アドニス。

偉大な父の影から出るアドニスの姿が私には、偉大な世代の後に生まれた私に道を見せてくれているように思えます。波乱の人生でもなく激動の時代でもなく。

ある程度の豊かさと教育、仕事などをもっていて、持たざる者ではない。アドニスも環境を持っています。

しかしだからこそ、そんな恵まれているといえる人生で何もなしえていない自分の、その何者でも無さにやりきれない思いを抱えるんです。アポロ・クリード、ロッキー・バルボア、それは過去のレガシーです。その完璧な遺産を観れば、正直今作を作ることに疑問が抱かれるでしょう。

ロッキーという偉大なボクシング映画がありながら、なぜ新しく作るのかと。

それは自分のレガシーを築くためです。
過去の背中をみながら、自分もそれに刺激され自分の伝説を生み出す。

クーグラー監督は、ほぼ監督経験のない時期に、単身スタローンのもとへ赴き、今作をどうしても作りたいと打診したようです。それはまるで、絶対に主役を譲らずにロッキーを作った、あの頑固者そっくりではありませんか。

若きクリードの猛々しい姿にロッキーも再び生きる。アドニスとロッキーはそのままクーグラー監督とスタローンですね。

いつの時代でも、伝説は始められる。自分もいつか、これが自分のレガシーだと思える人生を歩めたらいいなと思ってみたり。

ロッキーという映画が当時与えた、自分に負けず戦い続けること、そして人生というファイトにあきらめず立ち向かい勝つこと。この精神をしっかりと保ちながら、シリーズに新鮮で活力ある闘志を注ぎ込んでくれた。

年末に、2015の締めくくりに精神の熱い映画です。おススメ。

そんなことで終わりです。それでは~

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