「テイク・シェルター」(2011)
- 監督:ジェフ・ニコルズ
- 脚本:ジェフ・ニコルズ
- 製作:タイラー・デイヴィッドソン、ソフィア・リン
- 製作総指揮:サラ・グリーン、ブライアン・カヴァノー=ジョーンズ、グレッグ・ストラウス、コリン・ストラウス、リチャード・ロスフェルド、クリス・プロー、フリストス・コンスタンタコポウロス
- 音楽:デイヴィッド・ウィンゴ
- 撮影:アダム・ストーン
- 編集:パーク・グレッグ
- 出演:マイケル・シャノン、ジェシカ・チャステイン、シェー・ウィガム、リサ・ゲイ・ハミルトン、トバ・スチュワート 他
「ラビング 愛という名前のふたり」などのジェフ・ニコルズ監督が、想像を絶する嵐が来るという夢に取りつかれ、竜巻シェルター造りに没頭していく夫と彼を見つめる妻や周囲の人間を描くドラマ作品。
主演は「シェイプ・オブ・ウォーター」などのマイケル・シャノン、また妻役には「女神の見えざる手」などのジェシカ・チャステインが出演しています。
ジェフ・ニコルズ監督作品としては2007年の「Shotgun Stories」に次ぐ第2作品目となります。
日本でも2012年に公開していたようですが、全然記憶にないですね。学生時代でまだまだジェフ・ニコルズ監督に反応できていなかったのかもしれません。
この後今作の主演であるマイケル・シャノンとは、「MUD-マッド-」、「ミッドナイト・スペシャル」と何度か組んでいくことになりますね。
こちらもAmazonプライムビデオにて配信されているところを見つけたので初めての鑑賞となります。
ジェフ・ニコルズ監督作品は後追い気味ではあるのですが、結構見ていて、こちらで「Shotgun Stories」以外はすべて鑑賞したことになりました。
あとは監督だけでなく、マイケル・シャノンの演技が各批評、映画祭にてかなり高評価であることと、ジェシカ・チャステインも好きなので鑑賞理由になっています。
地盤の採掘現場に勤務するカーティスは、妻サマンサと耳に障害を持つ娘と平穏な生活を送っていた。
娘には手話を教えながらも、根治手術に向けて医療機関を探している。
しかしある日から、カーティスはたびたび悪夢にうなされるようになる。そこでは見たこともない恐ろしいスケールの嵐が近づいており、犬や人間が狂暴化したりするのだ。
夢のせいで呼吸困難になったり、夢の中で受けた傷が傷跡はないのに痛みとして感じ続けたり、カーティスは着実に精神を蝕まれていく。
そして彼は妻にも黙って、竜巻シェルターの建築のためにローンを組み、仕事場に無断で重機を使用するなどし始める。
次第に周囲の人々や親友も彼の異常行動に不安を覚えていくのだった。
プロットを見たとき、アメリカでよく見かける世界の終わりを訴える人の精神や思考を紐解いていく映画かと思いました。
もちろん、精神を紐解いていくという意味で、このノアの箱舟を組み立てようとしていくカーティスの物語を見ていくことはできます。
しかしジェフ・ニコルズ監督はもっともっと、どんな国の誰にでも共有できるような根源的なものをテーマにしていました。
心配、不安、そして恐怖。
人間という生き物は知性があり将来に投資することのできる生物です。
今だけで満足せず、今現在の生存だけでなくこの先の生存に関しても考えてリスクを特定し対策を練る生き物なのです。
しかし悲しいことですが、不安や恐怖をすべて拭い去るということは絶対にできません。
この作品はその残酷さをまじまじと見せつけていく実験的なアプローチであり、傑作だと思います。
傑作の理由として個人的には2つ。
役者が半端なく良いこと、そしてジェフ・ニコルズ監督の演出や脚本構成が良いことがとにかく素晴らしいのです。
マイケル・シャノンですが、彼がいなければ成立しないほどの卓越した演技でした。
これは演出とのかけ合わせてさらに爆発力を増す点ですが、カーティスの悪夢を観客が共有しているときには、彼の苦悩や不安、そして彼なりの論理的な思考と行動がしっかり理解できるんです。
そして周囲に憤りさえしてしまい、完全にカーティスに同情していきます。
たしかに幻覚なのかもしれませんが、ぬぐえぬ不安に苛む様子が痛いほど伝わります。
そしてこれが幻覚であるという事実を認めても、それが今度は自分が母のようになるという不安を決定づけてしまうこともまた恐怖です。
カーティスは母に、つまり保護者に見捨てられた経験を持っています(父が代わりに育ててくれましたが)。
そこで自分がいずれにしてもおかしくなってしまうことは、妻と娘を守るという保護者として役立たずになること。
つまり自分もまた母のように放棄することが怖い。
彼一人が家計を支える柱であり、自分だけは折れてはいけない。
責任や重圧を抱えながら、彼は忘れがたい悪夢の嵐が来ることに備えなくてはいけません。
そしてもしそれが幻想であれば、精神異常者になっていく可能性がありそれも乗り越えなければいけない。
夢が真実なら家族を守るため奮闘する→周囲からは異常者に。
夢が幻覚なら母と同じように精神疾患を発症し始めている→医学的に異常者。
なんというジレンマでしょう。
大爆発する町内の集会シーン以外にはさして感情を大きく見せるシーンはないんですが、カーティスの苦しさを細やかに見せるマイケル・シャノンに脱帽です。
そしてさらに彼は、時にカーティスを信じていいのか不安にさせてもくるのです・・・
さて、演者ではジェシカ・チャステインも言及したいです。
このころはまだまだ駆け出しだったような彼女ですが(この作品では日給100ドルだったとか(ほぼ1万円ちょっと))、さすがの力です。
サマンサは近い距離でカーティスに接するキャラクターで、最後の展開への布石を積んでいくものとしても重要な機能を持っています。
だんだんと夫がおかしくなっていくことに、彼女自身が不安を覚えていく。
家族なのでだた切り捨てることはできませんし、かといってサマンサが何とかできるわけでもない。
彼女もまた非常にジレンマに陥った存在としての焦りが伝わります。
さて、その素晴らしい演者に加えて確かだなと感じるのはジェフ・ニコルズ監督の演出。
一つ面白い監督の演出は、あの町内集会シーン。あれ、役者以外の人たちはタダ飯食えて映画に出れるとしか伝えられていなかったそうです。
それが急に乱闘騒ぎになるわ、マイケル・シャノンがブチギレるわ、あのドン引きの静けさは本物ってことです(監督ちょっと意地悪ですね)。
そんなこともしつつ、重要なのは、マイケル・シャノンがカーティスを信じていいと観客を引き込むことと、同時に彼は本当にイカれているんじゃないかと不安にさせることに一役買っている演出です。
それは、カーティスの悪夢を見せる/見せないの切り替え。
悪夢を観客にも共有する、つまり実際のイメージ、映像として示すならばここに感情のつながりが生まれます。
だから周囲の人の理解のなさにこちらも苦しくなるんですよね。
しかし、例えば同僚デュアートに襲われたという悪夢を語るときには、そのイメージはありません。
ただカーティスがしゃべっているだけです。観客に対してカーティスの悪夢は示されないのです。
ここでは観客とカーティスのつながりが薄くなりますし、さらにサマンサとのカットバックもいい効果が出ています。一緒の画面に映さないことからくる距離。
こっちだと、おかしなことを言っている夫に困惑するサマンサの不安のほうを感じます。
で、このサマンサの不安。つまりカーティスが異常な行動に出ていくことそれ自体が、最後のシーンにつながっていくわけですね。
サマンサの心の中に、決してぬぐえない「夫を失うこと」という不安と恐怖が植え付けられえてしまったのです。
一度不安や恐れを抱いてしまったら、それを克服することは難しいものです。
潜在的に、心の奥底に抱え続けることになる。
一度罪を犯すとその人を心のどこかで信用できなかったり、過去に浮気があると度々不安がよぎるようなレベルであれば、もっと普遍的でしょうか。
障害のある娘を守り、妻を支える。決して母のようにならない。
強く想うがゆえにカーティスは取りつかれていく。
根底にある優しさゆえの精神異常をうまく見せること見せないことを調整して描く。
マイケル・シャノンの圧巻の演技に監督の演出が重なりとても素晴らしいドラマであり、恐怖と人間についての観察が完成していました。
今となっては10年も前の作品になってしまいましたが、観れてよかったです。
今回の感想は以上。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それではまた次の記事で。
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