「アマンダと僕」(2018)
- 監督:ミカエル・アース
- 脚本:ミカエル・アース、モード・アメリーヌ
- 製作:ピエール・ガイヤール
- 製作総指揮:エーブ・フランソワ=マシュエル
- 音楽:アントン・サンコー
- 撮影:セバスティアン・ビュシュマン
- 美術:シャルロット・ドゥ・カドビル
- 編集:マリオン・モニエ
- 出演:ヴァンサン・ラコスト、イゾール・ミュルトリエ、ステイシー・マーティン、オフェリア・コルブ、マリアンヌ・バスレール、ジョナタン・コエン、グレタ・スカッキ 他
第31回東京国際映画祭にてグランプリと最優秀脚本賞を獲得した作品。
姉の突如の死と向き合うことになった青年と、残された姪であるアマンダとのドラマを描きます。
監督は今作が3本目の長編のミカエル・アース。過去作になりますが「サマーフィーリング」(2015)が今度日本公開を控えていますね。
実は昨年の映画祭にてチケットは買っていた作品。
ただ色々あってその時間に観に行けず・・・そしたらグランプリを獲って惜しいことをしたと思ったのです。
ですがすぐに日本一般公開決定と聞いてある意味安心。スクリーンでの鑑賞チャンスがもらえたんです。
そんなわけで恵比寿で観てきました。梅雨時の天気の中結構多くの人が見に来ていましたね。年齢層はやや高めにも思えました。
パリにあるアパートで、観光客や借り手の世話をする青年ダヴィッド。
彼は姉のサンドリーヌと仲が良く、姪っ子にあたるアマンダの学校の迎えに行ったりしていた。
ダヴィッドはパリへ越してきたエマと仲良くなり、デートするようになる。
二人の関係も良好で、姉とアマンダにも紹介し、穏やかな日々が過ぎていった。
しかしある日、サンドリーヌが亡くなる。
姉の喪失に押しつぶされそうなダヴィッドだが、アマンダの一番の身寄りが自分しかいなく、これからアマンダを守り育てていく責任も出てきた。
悲しみと痛みに包まれる二人が、身を寄せ合い生きていく。
喪失物語では究極の癒しだと思っている「マンチェスター・バイ・ザ・シー」が好きですが、今作もそうした静かな、浸るような悲しみに溢れていました。
そして今作は”繋がること”でその悲しみを抱え前を向くことを示しています。
題材としては大切な人との死別ですから、繋がりが消えてしまう悲しさがくるかと思っていたのですが、そうではなくて、彼女を想う残された人たちが、一緒に悲しみを分かち合うことでそれを乗り越えていく。
つまり、逆に繋がりが強くなるんだと示しています。
一人では抱えきれない悲しみ、処理しきれない痛み。人が人を支えることでそれを和らげ、希望をくれる。
今作はみんなで泣くシーンがなかったと思います。
ダヴィッドがアマンダにサンドリーヌの死を伝えるシーンではダヴィッドだけが涙し、そして街を散歩するシーンでは、アマンダが泣き出しそれをダヴィッドが支えます。
友人とダヴィッドが話すシーンも。泣いている人がいて、もう一方がそれを慰めるという構造が徹底していました。
アマンダを演じた少女イゾール・ミュルトリエは演技経験なし、監督が偶然見かけて抜擢したようです。
彼女の無垢さ、それを切り取る監督の手腕が素晴らしかったですね。
サンドリーヌが亡くなったことをきっかけに、人々の再会が起きます。
叔母さんと会い家に泊まったり、ダヴィッドは疎遠だった母と再び会います。残酷な死が、人々を引き裂くのではなく、より近づけ共に歩ませてくれる。
ここは卑劣なテロに対するフランスの考え方や、精神があるのかもしれません。
本当は母と3人で見に行くはずだったウィンブルドン。
その試合で一度は全て絶望に飲まれそうになりながら、諦めないことが輝きます。
突然の、そして理不尽な、現代を生きている私たちが直面する死別。その残酷な世界に絶望するのか。
それとも、アマンダのように希望を捨てず前を見るか。
ざらついた質感の画面、どことなく時代を感じさせない作りの(スマホとか出てきますが)今作は、テロの時代における恐怖を見せながら、普遍的。
大切なのは、悲しんでいる人がいたらそばに寄り添ってあげることなのかもしれません。
親切というか、そこから自分自身が救われることもあるんだと思いました。
静かで悲しさが染み渡っていくような作品。
一度は自転車を無くして動けなかったけど、また走り出すのです。サンドリーヌと一緒に走ったように、今度はアマンダと。
何でしょうね。引っ張っていくような無理矢理な強さじゃない、抱擁する強さで前に進ませてくれるような映画でした。
感想はこのくらいです。ちょっと短めです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。また次の記事で。
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