「くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ」(2012)
- 監督:バンジャマン・レネール、ヴァンサン・パタール、ステファン・オビエ
- 脚本:ダニエル・ペナック
- 原作:ガブリエル・ヴィンセント
- 製作:ディディエ・ブリュネール
- 出演:ランベール・ウィルソン、ポーリーン・ブロナー 他
ガブリエル・ヴィンセントの絵本「アーネストとセレスティーヌ」の長編アニメーション映画。
クマとネズミの二つの世界をまたに芽生える友情と、彼らを取り巻く環境を描く作品です。
今作はアカデミー賞の長編アニメーション賞にノミネートされ、批評筋では高い評価を得ました。
しかしながら日本での公開はかなり遅れて、2015年になりました。見る機会はあったのですが、その時はスルーしてしまい、今更Amazonプライムビデオにて配信版を鑑賞しました。
英語音声ではフォレスト・ウィテカーなどが声を務めているらしいですが、今回はフランス語音声での鑑賞です。
世界は地上のクマたちの世界と、地下のネズミたちの世界に分かれている。
地下のネズミの孤児院で育ったセレスティーヌは、館長の「クマは恐ろしく、ネズミを食べる」というお話も聞かずに、クマと仲良しなネズミの画を書いて遊んでいた。
成長したセレスティーヌはある日クマの世界へ出かけたが、誤ってゴミ箱に閉じ込められてしまう。
そんなセレスティーヌを助けることになったのは、音楽家であるが文無しでおなかをすかせたクマのアーネスト。
二人の出会いは、クマとネズミの世界をおおきく揺るがしていく。
作品のタッチは全体にとてもやわらかく、そしてまさに絵本の挿絵のような完成度を持っています。
完全性を持っているわけではなく、必要なディテールはとてつもなく書き込まれているのに、不要なところは描きこみすらないというイラストです。
この感覚はどことなく覗き込んでいる感覚を強めてくれていると感じ、すべてが見えるわけではない、つまり自分たちが認知しているのは一側面でしかないというようなメタメッセージ感もあるかと思います。
そして覗き込むという点では、とにかく世界に存在する物体、特にネズミの世界を眺めるのは非常に楽しいです。
それぞれのロジックに従ったギミック的な設備ももちろん、欧州の昔の街のような作りが実に壮大で、小さな世界ながらも観ていて広がりが素晴らしく感じました。
境界線の淡さや色合い含めて、作品全体がすごく優しい雰囲気に、画のタッチだけで統一されていきます。リッチなアニメーションとしてもかなりおススメと思います。
また各キャラクターの動きの面でもアニメーションが可愛らしいですね。
柔らかなうごきで、線の太さや圧もいじって調整されていると感じます。
奥行や上下構造などのダイナミズムはちょっと薄く、どちらかといえば平面的な構図が多い点は好みにもよるかもしれませんが、テイストとして私は楽しむことができました。
作品は共生という普遍的な教育に繋がります。
やはり欧州は移民の流入が多く、特にタイムリー話題。
ただ、かこつけた感じではなく、普遍的に他者を受け入れることが描かれています。
より若い、子どもたちにとって、このアーネストとセレスティーヌの関係性の曖昧さは心地よいかと思います。
大人の視点で観ていると、どうしてもカテゴライズしたくなってしまい、これはロマンスなのか、友情なのか、親子愛のようなものに近いのかと考えてしまいます。
ただそうした理屈抜きに、異なる相手と友好関係を形成する、そこに主眼が置かれているんですね。
いわゆるクマたち、ネズミたちの視点をもってしまうと、どうにか自分達の枠にアーネストとセレスティーヌの関係を押し込めようとし、溢れてしまう。
だからこそ異物として弾圧するのです。
知らずに抱えるフレームからの脱却と、他者理解を再度確認していく上でも非常に暖かくまとめられています。
子どもの形成においてももちろん良いと思いますが、大人たちが自分を見つめ直す意味で感心する作品でした。
唯一気になる点というと、因果の放置ぎみな部分。
理由や経緯はどうであれ、窃盗や暴走行為にはやはり代償がつくはずというか。
もちろん裁判はされますが、論点はその起訴事実よりもむしろアーネストとセレスティーヌの関係性の否定を念頭に進んでしまいます。
せめて、迷惑をかけたことを謝ったり、何かの形で行為につく結果を見せなくてはと感じます。
共生メッセージに振りきりすぎて、ややロジックを失った終盤は特に気になってしまいました。
少々気になる点はありますが、豊かなアニメーションと優しさ溢れるタッチから、失いがちな視点を呼び起こしてくれる作品でした。
Amazonプライムビデオにて配信されていますので、お時間があれば是非。
今回の感想は以上になります。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
それではまた次の記事で。
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