「私はあなたのニグロではない」(2016)

  • 監督:ラウル・ペック
  • 脚本:ジェームズ・ボールドウィン、ラウル・ペック
  • 製作:レミ・グルレティ、エイバート・ペック、ラウル・ペック
  • 音楽:アレクセイ・アイギ
  • 撮影:ヘンリー・アデボノジョ、ビル・ロス、ターナー・ロス
  • 編集:アレクサンドラ・ストラウス
  • アニメーション:マイケル・ブラウスタイン
  • ナレーション:サミュエル・L・ジャクソン

「ルムンバの叫び」(2000)や「マルクス・エンゲルス」(2017)などのラウル・ペック監督が、アメリカ人作家であったジェームズ・ボールドウィンの未完成エッセイを元に、彼の過去のメモや小説、記録映像をまとめ上げて作り上げたドキュメンタリー映画。

キング牧師、マルコムXそしてメドガー・エバースなどの公民権運動の主導者たちの人生と、数々の映画作品などからアメリカにおける黒人の歴史を紐解く作品で、多くの映画祭で絶賛され、アカデミー賞では長編ドキュメンタリー賞にノミネートされました。

ちょうど2016年のトロント国際映画祭でのレポートで聞いてから、とても面白そうな作品だと思って今したが、もう忘れかけたころに日本でも公開。

ドキュメンタリー映画と言うとあんまり人が入らないようなのですが、結構席が埋まっていました。

有楽町のHTCにて2回観てきましたよ。

黒人の歴史は、アメリカの歴史だ。それは美しいものではない。

1987年に他界したアメリカ人作家であるジェームズ・ボールドウィン氏が生前に書きはじめ、完成せずにたった30ページで止まった作品、「リメンバー・ディス・ハウス」。

そこでは、ボールドウィン氏が殺害されてしまった友人のマーティン・ルーサー・キング・Jr、マルコムX、メドガー・エヴァ―スの3人を通してアメリカを語る。

作品は彼の複雑で苦悩に満ちた真実への旅を追いかけ、彼の言葉を道しるべに、アメリカという国に何が起きている、そして何が起きるのかを探っていく。

ラウル・ペック監督によるドキュメンタリーは、ジェームズ・ボールドウィンによる著書や彼のみたアメリカを通しつつ、最終的に行き着く先は、より普遍的な人間の歴史であり魂でした。

そして、ここまでぶん殴られた映画も久しぶりです。

観ていて様々な感情が爆発しました。

怒り、悲しみ、哀れみや絶望。何よりこんなに恥ずかしい思いをしたというのが驚きでした。

ボールドウィン氏の言葉は主にアメリカの当時の白人へと向けられたものですが、その普遍性は素晴らしく、スクリーンみる私に向けられていたと言ってもいいのです。

無知で無責任で、怠惰であり悲観的な、死んでいるも同然の存在。自分のなんと偽善者なことか。反論の余地もないボールドウィン氏の言葉に、ただ閉口しているしかありませんでした。

ちなみに、今作は必見であると共に、映画館でみるべきドキュメンタリーであると言って良いでしょう。

ひとつに、映画館という逃げ場のない状況で、スクリーンを直視するしかないという環境で、語られることに逃げずに向き合うからです。

普段は目をそらしてしまいがちな題材に、真っ直ぐ向き合わされるのです。

次に、ジェームズ・ボールドウィン氏です。彼が劇場向きなのです。

雄弁で意志が強く、間の置き方とか眼による表情などとにかくスクリーン向きなんですよ。彼のインタビューだけでも映画館で流して欲しいくらいw

今作は、膨大な歴史的な資料、またボールドウィン氏が映画評論家でもあったことから、多くの作品のフッテージも挿入され、最近では”Black Lives Matter”のムーブメント、ファーガソンでの事件報道の記録まで映されます。

1979年に書かれたものを原作としていながら、時代を大きく、当時からすれば未来であった現在も交えて語っていく。

そのジャンプには違和感がない、またボールドウィン氏の語りが今の映像に重ねるために記録されたようだというのも皮肉な話です。

彼が当時憂いた、嘆いたアメリカの現状は、なんら今も変わっていないのです。

マーティン、マルコムX、メドガー。友人たちの死をもってして、アメリカの根幹は変わらなかった。

その変わらない現状を追求する旅には、変わっている社会や政治、数字なんてみても意味はないのです。変わっていないのは人間の根幹にある魂でした。

確かに有色人種の権利は広がり、黒人の大統領も出ました。でも、そこに”黒人初の”とか、”女性の権利が、平等が”という概念が絶えず存在する。

つまりそういった表現は、”本来はあり得ないけど、特別な存在として許される”そして”私たちはそうやって被差別者を支援している”という考えの元に生まれる言葉なのです。

それは真にあるべき体制ではない。

しかし、ラウル・ペック監督は、ボールドウィン氏のスピーチを最後に挿入し、そこに希望を残した気がします。

「生きている限り、楽観的でなければならない。悲観的では生きられない。

なぜニグロが必要だったのか?その答えに未来がある。」

なぜ差別をしたのか。

なぜ虐殺したのか。

なぜ傷つけ、憎み、そしてそれらを正当化したのか。

そうした行動が持つ本当の対象は、自分であると思います。自分を、自分の地位や権益を守るために、他者を傷付ける。

人の魂は孤独ゆえに、安心や優越を求めて、他の魂を踏みにじるのです。

しかし、本当にそんなことをしなくては私たちは生きていけないのか?そうは思いません。

それがなくても人は生きていけるはずです。

つまり、差別も虐殺も、なくしても社会的に何の問題もないはず。なくせるはず。

私たちは同意こそすれど、心の底では差別と虐待を認め、いや求めています。失うのが怖いんです。差別することで半永久的に得られる、”差別されない側”という地位を。

どうせ政治家は腐っている。何をしようと政治を変えられない。戦争はなくならない。差別はなくならず、加害者は罰せられない。

このまま続く。心から世界が変わるとは信じられなくなった私たちに、今作は前を向き楽観的に生きろと語るのです。

真に私たちの魂が希望を信じたとき、ボールドウィン氏が望んだ国、世界が現れるはずです。

そうならなければ、私たちはこの危険なほど長く続いた悲観的世界と共に死んでいくでしょう。

いつしか誰も二グロでは無い世界が来ることを、願ってはいけない。願うだけでは、何も始まらないからだ。多くの人が歴史の中でその役目を果たした。

ボールドウィン氏も、南フランスから危険なアメリカへと戻り役目を果たした。だから私たちも役目を果たさなくてはいけないのです。

それが過去のことだと思い、もし今こそが歴史であることから目を背ければ、それは罪です。

ボールドウィン氏がどれだけ深い洞察をもってアメリカを観ていたか、そして彼の言葉はなぜか、日本で生まれ育った私にも響いてきました。

子供のころから観てきた映画のヒーローたちとの隔絶、重要ではないというアジア、日本人の位置。

大人になって感じたアメリカの地の空気は確かに、映画で観てきたものとは違いました。

私たちもこの日本という国で、多くの二グロを生み出している。やらなければいけないことが多すぎる。でも楽観的に生きていきます。

ラウル・ペック監督にありがとうと言いたいです。ボールドウィン氏の言葉と精神をこうして私に出会わせてくれた。今作こそが、「リメンバー・ディス・ハウス」を完結させたと言っていい、人間を追ったドキュメンタリー。必見です。

感謝しかない作品って良いものです。

人生の中で何か重要なものに出会う時をいまこの歳で味わいました。今回はこの辺で終わります。それでは。

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