「異端の鳥」(2019)
- 監督:ヴァーツラフ・マルホウ
- 脚本:ヴァーツラフ・マルホウ
- 原作:イェジー・コシンスキ
- 製作:ヴァーツラフ・マルホウ
- 撮影:ウラジミール・スムットニー
- 出演:ペトル・コトラール、ステラン・スカルスガルド、ハーヴェイ・カイテル、ジュリアン・サンズ、バリー・ペッパー、ウド・キア 他
イェジー・コシンスキによる小説をもとに、ヴァーツラフ・マルホウ監督が描く戦争ドラマ。
身寄りのないユダヤ人少年が数多の迫害や暴力を受けながら必死に世界を生き延びていく様を描きます。
主演は新人俳優ペトル・コトラール。そのほかハリウッドなどでも活躍のハーヴェイ・カイテルやステラン・スカルスガルドなども出演しています。
製作には実に11年もかかった作品で、ペトルの成長を踏まえて撮影したので撮影の期間もかなり長い映画になっています。
ベネチアでコンペにて上映、その題材と描かれる事柄は衝撃を生み、批評家から高い評価をうけ、アカデミー賞の外国語映画賞チェコ代表に。
第32回東京国際映画祭では「ペインテッド・バード」ワールド・フォーカス部門で上映があったのですが、スケジュール調整の結果断念した作品。
それがこうして一般公開してくれたことには感謝です。本当に観れてよかった。
ユダヤ人の少年は両親から離れ叔母のもとに預けられていた。
迫害や差別が渦巻く世界から離れ暮らす二人だが、不幸にも叔母は亡くなってしまう。
少年はたった一人、世界をさまよい、その残虐性や暴力の対象となる。
行く先々でむごい仕打ちを受け、追いやられ捨てられ、それでも少年は生き、そして生き延びようともがき続ける。
今作はあまりに内容的な激しさを持っていることから、反応が極端になったことで話題になっています。
ベネチア映画祭での上映中の退席者の多さ、そして終了時のスタンディングオベーション。
その意味ではある程度の覚悟が必要な作品だなと感じます。おもしろそうとかエンタメ目的では全くお勧めできません。
私はネメシュ・ラースロー監督の「サウルの息子」を観た際の感覚を覚えました。
残虐な非業のつるべ打ちは確かに観ていてつらいものです。少年に降りかかり続ける人間の業。差別と迫害、そしてそれだけでなく、今作では根源的な欲望や暴力性も集約するかのように少年に向けられます。
この作品は人種差別だけが主題ではなく、むしろ特定環境下において、それは戦争の下でもいいですし、孤立した社会集団でもある目的を持った集団でも、人間というものがいかようにも残酷な獣と化す様を描いています。
音楽がまったく配され、淡々と進んでいく。そこで音響や撮影の力がこれでもかと効いてきます。
ウラジミール・スムットニーによる圧倒されるシネスコでの大きな遠景は、そのモノクロによる色彩の無さからより明暗を強め、いかに凄惨な画面であっても飲み込まれてしまうほどの力強さを持っています。
繰り出されるのは暴力ばかりですが、ショットには美しさが宿り、また時折見える少年の、この世界に残されたわずかな善意のようなものが、すごく輝いて見えます。
またその善意とモノクロ画面は非常に重要な意味合いを持っていました。
今作はセリフすらほとんどありません。
その中で、ペトル・コトラールの表情、その瞳は非常に重要でした。
目の前の現状に対してのリアクション、彼の表情はどんどんと失われていきます。
そして変わらない顔の中でやや残されていた瞳の輝きも徐々に失われていくのです。驚異的な新人です。
言葉を発すことが少ない主人公に対して、その周囲がしゃべっていきますが、実は難点もある気がします。
今作ではインタースラーヴィクという人工言語が使用されています。
特に国を限定することのできる言語ではないため、登場人物の会話からその国や民族に関して特定しきることができないということになります。
このアプローチそのものは良いですが、個人的にはそれによって吹替が行われている点がやや危ういと感じます。
これは、今作におけるスター的な俳優、配役、ハーヴェイ・カイテルやステラン・スカルスガルドのシーンに影響します。
つまり、彼らの演技シーンにおいて、その声やセリフなどが取り払われてしまうこと。それによって、要素としはスターの出演という部分が割合多く残り目立ってしまうことです。
もちろん彼らのまなざしや体、表情などが多く残るのですが、できれば吹替なしだと良かった気がします。
この点は意見が分かれるかと。
スター俳優の配置は良い点もありますが、ここまで没入する作品ではその存在感そのものが、映画への入り込みを阻害することがありますから。
まあ私は逆に、あまりに凄惨な世界に、知ってる顔が出てきて安心すらしましたがw
やや気になってしまう部分もありますが、逆に映画に親しんでいなければ、俳優もわからないと思うのでそれは観客次第。
もっと普遍的な、人の悪業、獣のような卑しさの露出は、誰にでも響いてきます。
モノクロが強めていく少年の瞳の闇。光の反射がどんどん失われていきます。
しかし少年に寄り添って、同じように悲惨な目にあってきていれば、それにもうなずけます。
彼は眼球を拾うも無力。苦しみを早く終わらせるために抱き着くことしかできず、助けた馬も殺される。
少年は泣け叫ぶことをやめ、受動から能動に。死を前にして、彼は寄り添うことをやめ靴を奪う。そして生きるために殺す。
彼は彼に降りかかる世界の暴力から学び、その真理に沿って生きる。
銃を構える少年は、全身が真っ黒な影になっています。
人間の残酷さや野蛮さをこれでもかと詰め込み、それぞれに自分の中の一部を感じさせてくることで、悪役とは言い切れない。
これは悪者で、自分とは違うとは言い切れないのがなんとも苦いのです。
暴力性や差別意識、支配欲に嫉妬、色欲。
私が特に自分の差別意識を感じてしまったのが教会でのシーンで、お賽銭?を集める主人公ともう一人の少年で、主人公はぜんぜんもらえず、もう一人の子がもらっているところ。
やっぱり金髪碧眼びいきかと思いましたが、モノクロなので色なんてわからない。自分でも無意識に色を塗っているのがなんとも恥ずかしい限り。
ここまで堕ちて、世界にはただただ暴力があふれかえっているように見えましたが、それでも私たちは、自分が本来何者なのかを思い出せるはずです。
最後の最後でやっと少年の名が分かるシーンは、ここまで来ても彼が、両親に愛され、ピアノがひけて絵を描いていたユダヤ人の優しき少年に戻れる証明です。
あの塗られた鳥のように、私たちは他者を区別し責め立てる。
しかし根底には同じ人間であることを覚えておかねば、この作品で少年を迫害する人々の中に、自分を見ることになるのです。
完璧ではないですが、圧倒される没入感を持つ作品です。3時間ですが長くない、劇場鑑賞がおススメの一本です。
感想はこのくらいになります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それではまた。
コメント