「サウルの息子」(2015)
- 監督:ネメシュ・ラースロー
- 脚本:ネメシュ・ラースロー、クララ・ロワイエ
- 音楽:ラースロー・メリシュ
- 撮影:エルデーイ・マーチャーシュ
- 音響:ザーニ・タマーシュ
- 編集:マチェー・タポニエ
- 出演:ゲーザ・ルーリグ、レベンテ・モルナール、ユルス・レチン、シャーンドル・ジョーテール、ユリ・ヤカブ 他
こちらが初の長編となるネメシュ・ラースロー監督。
カンヌでのグランプリに、ゴールデングローブの外国語映画賞、そしてオスカーでもノミネートとかなり評価の高い作品。
ホロコースト、収容所映画は「シンドラーのリスト」(1993)とか「戦場のピアニスト」(2002)などは観ていますが、今回は監督のインタビューでの発言に興味があって観てきました。
なるほど題材は同じでも、まったくアプローチの違う、本質の異なる映画です。
若い人はあまりいなくて、年齢層高めでした。しかしおしゃべりしていたおばさんたち、上映後は絶句していました。
第二次大戦下、絶滅収容所では”ゾンダーコマンド”というものたちがいた。
己の延命と引き換えに、施設の作業を命令されるユダヤ人たちである。ハンガリー系のユダヤ人であるサウルは、そのゾンダーコマンドとして働き、同胞を処理するガス室の清掃をしていた。
その時奇跡的にガスを生き延びた男の子がいた。すぐさまドイツ兵らに処理されるが、サウルはその子こそ自分の息子だと言い、遺体を埋葬してやりたいと思う。
しかしそのためには、遺体を盗み出し、ユダヤの聖職者であるラビを探し出さなければならなかった。
オープニングから早速伝わってくるのは、この映画が何を見せるつもりなのか。
画面はほぼ正方形、ピントは風景に合わず、画面ど真ん中のサウルにのみ焦点を合わせています。画面にはサウル以外の余地はほとんどなく、周りの情報はなんとなく入る程度です。
サウルの前か後ろにおかれるカメラは、サウルと共にいるという以上に、サウルを通して彼の観るものを観ている感覚でした。
あまりの凄惨な世界に、観たくないという本能が、サウルの中でこのような視界の狭さを取っているのかもしれません。
いつどこでカットがあるのかわからない長回しでの撮影。次にカットが切り替わるとき、何かが起きてしまうのではないか?サウルの命と同じように、常に次の瞬間への緊張が保たれ、強烈かつ見事です。
そんな映画の中で、初めて彼以外にカメラが向き、焦点が合うのが、息子という少年。処理が終わるまでずっとそれが画面に。そこから彼の任務が始まることになります。
少し話しているだけでも危うい中で、サウルは息子の遺体を盗もうとする。
「死体などに意味は無い。」と言われても、サウルは止まりません。ずっとうつろな目で、表情も変えずに虐殺の流れでの作業をしているサウルです。
ルーリグの表情の素晴らしいこと。彼は「俺たちはもう死んでいる。」と自分で発言するように、生きることも自由も何もかもあきらめた、いわば動く死体。
そんな息子を弔おうとする姿勢には、生において絶望し人間らしさを完全に絶たれている中、死においては人間の尊厳を保とうとする本能的なものを感じました。
どんな極限状態でも、死んだらしっかり送ってあげよう。
それすらできなくなったらもはや人間ではない。周りのゾンダーコマンドたちが持つ生きる希望や抵抗の力は、サウルにはもうありません。
言ってしまえばゾンビであるサウルは、死の中での尊厳を守り、そして自分自身がなんとか人間として死んでいこうとしているようでした。
雑多に物は置かれているのに、モノトーン並みに色彩にかける収容所などサウルの世界。
実際に息子なのかなんて関係ないと思えて、この地獄でサウルが見つけた目的をなんとか果たしてほしかった。
幾度とない死が近づいた瞬間でも、表情一つ変えない彼が、最後の最後でほほ笑む。同じ真正面のカットでも、後者はかすかに希望がありました。
そこには綺麗な服で、金髪の、全編通して唯一色があるように思える少年がいました。
ホロコーストの惨さや、収容所でのゾンダーコマンドの詳細、それは透けて見えるものでしかありません。そういった紹介をする、歴史教科書ではないと思います。
この中では極限の地獄にいる男が、どのように人間であろうとするか、それが描かれていると感じました。サウルは生きることでなく、死の扱いに尊厳を見出したのかもしれません。
もちろん歴史的な題材ではありますが、空想世界でもなりたつお話。観ていて気分が悪くなるほどに画面内の空気を吸い寒気を感じる、体感映画でもあります。
見事な撮影アイディアと実行、演技、監督の手腕です。何度も観れるものじゃないですが、必見。
というところで、終わります。正直これを観てからというもの、何かと私も動く死体と化す瞬間がある気が・・・ それでは~
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