「ロストガールズ」(2020)
作品概要
- 監督:リズ・ガルバス
- 脚本:マイケル・ワーウィー
- 原作:ロバート・コルカー『Lost Girls: An Unsolved American Mystery』
- 製作 アン・ケアリー、ケヴィン・マコーミック
- 製作総指揮:ローリー・コスロー、エイミー・ノイオカス、ヴィナイ・シン
- 音楽: アン・ニキティン
- 撮影:イゴール・マルティノヴィッチ
- 編集:カミーラ・トニオロ
- 出演:エイミー・ライアン、トーマサイン・マッケンジー、ガブリエル・バーン、ウーナ・ローレンス、リード・バーニー、ローラ・カーク 他
「すべてをかけて:民主主義を守る戦い」など数多くのドキュメンタリー映画を手掛けてきたリズ・ガルバス監督が、初めて長編劇映画を撮った作品。
原作はロバート・コルカーによるノンフィクション小説『Lost Girls: An Unsolved American Mystery』であり、ロングアイランド連続殺人事件として知られる未解決の若い女性たちの失踪と殺害事件をもとにしています。
失踪した娘を探し求める主人公である母親を「ブリッジ・オブ・スパイ」などのエイミー・ライアン、また彼女の他の娘たちを「ラスト・ナイト・イン・ソーホー」などのトーマサイン・マッケンジー、「サウスポー」などのウーナ・ローレンスが演じます。
その他、ガブリエル・バーンが捜査当局の担当者として出演。
実際の事件に関しては「ロングアイランドの連続殺人鬼」のwikiを軽く読んでいただければわかるかとは思いますが、あまり情報を入れずに作品を楽しみたい場合には鑑賞後にいろいろと読んでみることをおすすめします。
作品ははじめはアマゾンのほうで配給予定だったそうですが、のちのちにNETFLIXに映ってから、そちらで配信とのことです。私も配信にて鑑賞しました。
~あらすじ~
2010年、メアリー・ギルバートの娘シャナンが行方不明になった。
家族は彼女との連絡が取れず、メアリーは警察に掛け合うも数日で戻るのではないかなどとあしらわれる。
メアリーは他の娘2人とシャナンの足取りを追うのだが、彼氏の男や運転手からも最終的な彼女の足取りはつかめなかった。
シャナンは売春婦として匿名の広告サイトクレイグリストを通し顧客とあっていた。
失踪した夜、シャナンは警察に通報。そこでには「彼らに殺される」という言葉があった。しかし当の警察は通報後1時間も現場に現れていなかった。
当日の対応にも全く失踪に関して捜査を開始しないことにもメアリーは憤り、警察署に乗り込んで捜査を開始するよう訴える。
渋々捜査をする警察であるが、シャナンが売春婦であることから”失踪はよくあることだ”などとやはり本気で操作をしない。
それから半年も経過し、ロングアイランドで4人もの女性の白骨遺体が見つかる。
彼女たちはシャナンのように若く、みなクレイグリストを介し売春をしていた女性たちだった。
感想/レビュー
時間の進み方、演出のキレ
リズ・ガルバス監督の初めての長編劇映画デビューとなる作品ですが、私は全体に賛の方ですね。
ドキュメンタリー畑出身の監督として、随所にドキュメンタリーテイストなスタイルを残してはいるものの、劇映画としての抑揚、表現についてもしっかりと作りこまれていると思います。
作品全体は特に重々しく、その足取りも重いゆえにややスローペースと感じるかもしれませんが、この遅さという点が題材たる警察の対応に対する糾弾への思いも強めています。
憤りしか覚えない地元警察の対応。
当時の現場到着の遅さ、聞き込みの不順分さ、証拠となりえるものも集めずまともな捜査も捜索もしない。
はやる気持ちこそ観客はメアリーと共有するため余計にいら立つこととなります。そのいら立ちの中に、このじっくりとした足取りが効果的なのです。
また、遅いという点と対比するようにジャンプカットであっという間に半年、1年を経てしまう点もすごい。
実時間が地獄のように続く、”娘はどこなのか、無事なのか”という苦しみをまず序盤で観ている側にも味合わせておきながら、ふと残酷に時を飛ばす。
そしてその時を経る際にただ字幕処理を行うだけではなく、その間に登場人物たちがどのように変わったか、何があったかを数カットで示してしまうのは素晴らしかった。
ふとおかれる大量の薬のボトル。序盤から呼応してテレビに映る昔の録画映像。
精神的にズタズタになったということと、そしてそれでもなお何を観ているかから執念も理解できる。
映像と演出を通しての語り口がキレキレ。
社会全体に対する糾弾
確かにリズ・ガルバス監督は間違いなくこの作品内で警察の対応を批判します。
公的な機関として、市民を平等に扱うべきである警察が、被害者が娼婦であったというただそれだけの理由で対応に差をつける。職務怠慢も甚だしい。
もちろんものすごく観ていて頭にくるのですが、それ以上に危険視されるべきなのが、監督が描き出す現地の住民たちです。
そのコミュニティ特性。
”善人以外お断り”の表札には、”コミュニティにとって良い人間以外は排除する”の意味が取れます。
偏った排除志向が、助けを求めていたシャナンを無視し、さらにメアリーの捜索に対しても立ちはだかることになりますね。
このコミュニティにもまた、娼婦という属性への偏見があり、薬をやっているのだとか、軽くみてしまう。
真に善人であるならば、助けを求める声にこたえるべきではないのか。
ただ、警察とコミュニティにとどまらないのがさらにつらい。この事件をロングアイランドの連続殺人として取り上げる、その手法。
マスメディアが展開するのは、謎の殺人鬼と”殺された娼婦たち”なのです。
そこには被害者女性であるシャナンの名前など出ません。
実際報道でそんな呼び方するの?と疑ってしまいますが、”prostitute”, “hooker”, “sex worker”という呼称ばかりが飛び交います。
途中でメアリーがキレるのはちょっとセリフ説明的ではありますが、この映画で叫ばなくてはいけないと考えれば、そうやってシャナンをまるで題材にしか見ず侮辱する社会全体も、見直すべきところがあるわけです。
犯罪よりも被害者に目を向ける
劇映画という点で主観的。
表現についてもややスリラー調のシーンも挿入されています。何よりも大事なのは、この作品の視点を通すことでメアリー、残されている被害者の家族に寄り添うこと。共感することです。
決して資料映像や、新聞記事、殺人事件の報道とかwikipediaになってはいけない。
やや犯人捜し感のあるテイストは不要に思えて、少し残念にも思いますが、総じてロングアイランド連続殺人の犯人に迫る・・・のではなくて、大切な娘を、姉妹を、友人を失った喪失と悲しみに目を向ける。
こうした事件で最も注視されるべきは犯罪者ではなく、残されてしまった家族だということです。それを作品自体のつくりから語ったわけですね。
リズ・ガルバス監督は連続殺人という題材を選びながらも、いい意味でエンタメにせず、観る者に重くのしかかるドラマを作り上げています。
そこには怒りすらも抱えてさまようエイミー・ライアンの好演や、とても静かながらも燃え、母を欲するトーマサイン・マッケンジーの好演もあります。
事件の被害者とその家族たちは、その事件や犯罪そのものよりもずっと大きく、敬意を表され真っ当に扱われるべきだ。
今作を通し、自分自身を無力さと悔しさと悲しさに溢れる被害者家族に放り込まれ痛烈に感じたのは、悲劇にあったときどう見られ、言及され扱われた以下ということです。
そしてそれを胸に、犯罪よりも被害者に目を向けていきたいものですね。
こうしてドキュメンタリー映画から劇映画に見事に進出する監督と作品を観れるというのも大変すばらしいことです。
NETFLIXで配信されていますので、興味のある方は是非ご覧ください。
というところで今回の感想はこのくらいになります。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
ではまた。
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