「沈黙 -サイレンス-」(2016)
- 監督:マーティン・スコセッシ
- 脚本:ジェイ・コックス、マーティン・スコセッシ
- 原作:遠藤周作 「沈黙」
- 製作:ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ、バーバラ・デ・フィーナ、ランドール・エメット、エマ・ティリンジャー・コスコフ、アーウィン・ウィンクラー、マーティン・スコセッシ
- 音楽:キム・アレン・クルーゲ、キャスリン・クルーゲ
- 撮影:ロドリゴ・プリエト
- 編集:セルマ・スクーンメイカー
- プロダクションデザイン:ダンテ・フェレッティ
- 衣装:ダンテ・フェレッティ
- 出演:アンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、アダム・ドライバー、浅野忠信、窪塚洋介、イッセー尾形 他
遠藤周作による「沈黙」を「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013)のマーティン・スコセッシ監督が映画化。一応原作は1971年に篠田正浩監督によって映画化されていますね。そちらは未見です・・・
主演には「アメイジング・スパイダーマン」シリーズのアンドリュー・ガーフィールド。また「スター・ウォーズ:フォースの覚醒」(2015)で一躍有名になったアダム・ドライバー、リーアム・ニーソンらが神父として出演。日本人キャストには浅野忠信、窪塚洋介、イッセー尾形らが出演しています。
スコセッシ監督が長年にわたって製作したいと願ってきた作品という事で、監督個人としての思い入れがすごく強い作品になっていますね。
スコセッシ監督新作、また既に海外から高い評価が聞こえていますし、本格的にしっかりと日本が描かれているという魅力もあってか、多くの人が来ていました。ほぼ満員状態でしたかね。
キリスト教の弾圧が厳しい17世紀の日本で、布教活動をしていたフェレイラ神父が棄教したとの知らせがポルトガルへ届く。フェレイラを師とし尊敬したロドリゴとガルペはそれを信じられず、師を探し真実を知るために日本へと渡った。
2人はマカオにいた日本人のキチジローの案内で、日本に密かに入り込むことに成功する。
そこには弾圧の中で密かに信仰を守ろうとする隠れ切支丹たちがおり、2人の到着を喜んだ。希望を与え、フェレイラ神父の情報も得たその頃、幕府側に2人の存在が漏れてしまう。
ロドリゴは自分たちを必死に匿い、酷い拷問を受けていく村人たちを目の当たりにするのだった。
スコセッシ監督が長年待った作品という事ですが、かなり個人的な作品としても観れるでしょう。
いつも人間の理解と不理解、理不尽さなどが過激な暴力としてあらわれていますが、今作はそこにさらに犠牲という要素が強く刻まれていますね。
まずビジュアル面から素晴らしいと言えるでしょう。
現時点でアカデミーにノミネートしている撮影ですが、ロドリゴ・プリエトの撮る日本。OPの湯気の立ちこめる岩場、海岸に川など、自然の風景の圧倒的な印象。時代を超えた感覚。
映し出されるのは非常に残酷な拷問と苦痛、死なのですが、絵画的な趣を称えていてどこか美しさすら感じますね。
画面に映る日本が、本当に日本らしく。いや、もちろん17世紀の日本とか切支丹弾圧とか知る由もないのですが、説得力が違います。重厚な時代劇としての画の力がありますね。
また撮影の力は、本作の主人公の旅路を観客に直接体感させる点にも強く働いているように思えました。
ロドリゴが観るのは、自分の存在を隠すために自ら犠牲になる者たち。自分を信じ、キリストを、神を信じ苦しむ者たちです。
彼は直接の拷問に苦しむことはないのですよね。ロドリゴが苦しむのは、自分のために他者が苦痛を味わい死んでいくこと。
始めこそカメラは”神の視点”というべき俯瞰ショットを持っています。ポルトガルの階段、海原、生い茂る茂み。しかし神の沈黙が長くなり、ロドリゴ自身が”見る”役割を担い始めます。
中盤の踏み絵から斬首のシーン。牢屋の格子越しのロングショットです。ロドリゴの視点は観客に共有され、彼と共に人の生死をみています。そして何よりも、彼がそこで屈することを選べば、つまり彼の決断によって今目の前で苦しむ人を救えるという究極的な状況へも観客を押しやるのです。
ロドリゴは五島に行き、救いを与えるものとなる。そして川の水に映る自分に、キリストの顔が見えるなど、キリストとの同一化を感じていきます。彼こそが苦を背負い、人々を救うものとなっていくのです。
しかし、ロドリゴは当然ジレンマに陥ってしまいます。
信仰を強く持てば、それだけ切支丹は拷問され苦痛を味わう。しかしそれを救うために棄教すれば、それは最大の裏切りと信念の放棄になってしまう。
信じれば救われるのではないのか。このジレンマの中で、神に祈っても答えは返ってきません。
そのベルイマン的な神の不在を考える前に、日本人演者たちがほんとに素晴らしいことも触れておきます。
とりわけイッセー尾形さんは魅力的です。恐ろしい拷問を考えた張本人でありながら、彼は完全に場の支配者です。彼が出てくるシーンは必ず彼のペースに持っていかれ、完全な悪ではなくどこかチャーミングな人。キリスト教側=善、幕府=悪ではないのが彼の描き方で良くわかりますね。
彼が怒るシーンが、キリスト教は日本では意味を持たないと言われたロドリゴの答え、「毒のせいだ」ですね。それまでは手を借りて立ち上がっていた井上様は、そこだけは頭に来たのか、手を貸そうとした家臣を叩いていました。当たり前です。日本としての寛容さを示していたのに、人の国と文化を毒扱いするのですから。
このような日本の描き方に、すばらしく日本的であるといい意味でも悪い意味でも思える作品。村での団結はすごいのに、隣の村の事は一切知らない閉鎖社会。宗教へ無関心ながら決して受け入れず、”日本は独特”を押し付ける態度など、本質的な部分の洞察がすごいのです。
一方でロドリゴも「2人の軍隊」の要素を見せています。ともすれば、彼はキリスト教をもって日本を支配しようという使者でもあるのです。その危うさもしっかり描き出す姿勢には感心ですよね。
祈れど祈れど起きない奇跡。
神は沈黙を続け、人々は信仰を隠し沈黙し、そしてロドリゴも棄教の要求に沈黙する。
そしてついにロドリゴが決断した時、キリストが沈黙を破りますが、それはロドリゴの頭の中の声つまりは彼自身の声でもあるととれますね。
散々ユダのように裏切ってきたキチジローに対し、軽蔑のまなざしを向けていたロドリゴは、はじめて彼の心を知る。信仰を捨てると言ってそれであっさり捨てられるものではない。捨てていないのに捨てたことにする。そういう弱者、卑怯者になることがどれだけ辛いことなのか、そしてどれほど勇気のいることなのか。ロドリゴは絵を踏んで初めて痛烈に感じるのでした。
全ては心の中での自分との問答だったように思えます。
信仰を守るも捨てるも、形や言葉ではなく、自分の心の問題であり、その心というものは自分のみが知るものです。神に問いかけたとて答えはない。沈黙という答えだけがある。
沈黙がある限り、神はいるとも言えますし、私としてはその沈黙はつまりは、自分自身に自分で答えを出せていない状態なのだと思いました。
キリストと自分を同一視し始めたロドリゴは、自分がどう歩むべきかの答えと、自分への赦しを、自分で生み出すのです。
スコセッシ監督は非常に複雑な問答に対し、説得力のある深い洞察を見せ、信仰を持つことの本質に切り込んでいます。
心に抱えた想いを理解できず、それゆえに人は残酷になりえる。凄まじい暴力は他人の心を理解できない形。しかしそれでも人の心は変えられません。それは物ではなく、誰も触れることのない部分です。宗教には遠くとも、人がそれぞれもつ信じることとは、この作品で描かれるようなものなのでしょう。
長くなりましたが、非常に重厚で日本をよく描きまた、難しい挑戦をする映画でした。これは見る必要のあるものですね。是非劇場へ。ということで、スコセッシ新作の感想でした。それでは~
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