「アフター・ヤン」(2021)
作品概要
- 監督:コゴナダ
- 脚本:コゴナダ
- 原作:アレクサンダー・ワインスタイン『Saying Goodbye to Yang』
- 製作:アンドリュー・ゴールドマン、キャロライン・カプラン、ポール・メジー、テレサ・パーク
- 製作総指揮:フィリップ・エンゲルホーン
- 音楽:アスカ・マツミヤ、坂本龍一
- 撮影:ベンジャミン・ローブ
- 編集:コゴナダ
- 出演:コリン・ファレル、ジョディ・ターナー=スミス、ジャスティン・H・ミン、ヘイリー・ルー・リチャードソン、マレア・エマ・チャンドラウィジャヤ、サリタ・チョウドリー 他
「コロンバス」のコゴナダ監督が、近未来のとある過程で、AIロボットの停止から始まる家族のドラマと記憶にまつわる旅を描く作品。
今作はアレクサンダー・ワインスタインの短編小説「Saying Goodbye to Yang」を原作としています。
主演は「THE BATMAN-ザ・バットマン-」などのコリン・ファレル、また「クイーン&スリム」のジョディ・ターナー=スミス。
また二人の養子である女の子をマレア・エマ・チャンドラウィジャヤが、子守をしているAIロボットをジャスティン・H・ミンが演じています。
さらにコゴナダ監督の前作「コロンバス」にも出ていた「スイート17モンスター」などのヘイリー・ルー・リチャードソンもクローンの女の子役で出演しています。
製作はA24。最近はいろいろな作品で目にしますし、日本公開率も高めですね。
自分としては「コロンバス」を見そびれてしまっていて(配信で観れるはずですが)、コゴナダ監督の手腕は聞いてはいるものの初鑑賞になりました。
公開週末に観てきましたが、人の入りはそんなに・・・という感じでした。
~あらすじ~
近未来。人型のAIロボットが人間の生活に溶け込み、ベビーシッターをしている時代。
ジェイクとキラ夫妻も、娘のミカの子守を、ロボットであるヤンに任せている。
しかしある日、ヤンが動かなくなってしまい、ジェイクは様々なテクノロジー専門家にヤンを検査してもらうも、その原因は不明だった。
ジェイクはヤンがこのまま再起動されないことも覚悟しつつ、検査を進める中でヤンに隠されていた記憶機能を発見する。
それは一日に数秒だけの記録機能であったが、投影される映像からヤンが向けていた家族への目線と、見知らぬ少女との記憶が明かされていく。
人間とは、機械とは。そして記憶とは。
ヤンの記憶をたどりながら、存在の深淵を探求していく。
感想/レビュー
小津安二郎監督を敬愛するコゴナダ監督は、決して派手に盛り上がることもない静謐なトーンから、しんみりと心に澄み渡っていくような深い洞察を繰り広げます。
小津監督の作品を思い起こすようなものももちろんありますが、しかし同時にコゴナダ監督のテーマの表現手法は斬新でおもしろい。
小説がもとにあるとはいえ、SFというジャンルで人間を深く掘っていく。自分としてはちょっと「ブレードランナー2049」なども感じました。
SFの世界観のつくり込み
今作は哲学的で、しかもその表現は静かで控えめ。
その探求の旅はしっかりと追いかけていくものですが、まず舞台となっている世界の設定がすごく丁寧に感じます。
おそらく何らかのテクノロジー戦争が、アメリカと中国の間であったであろう背景。だからこそラスはなんか陰謀論に憑りつかれ気味ですし、個人情報の取得への警戒感が強かったり。
また環境問題か資源の問題があったのか、着ている服とか日常に出てくるものの素材にプラスチック系が全くなかったのも良いつくり込みだなと感じます。
ジェイクたちの家のつくりなんかも、和洋折衷的な感じでおもしろいです。
ガラス窓が引き戸であったり、インテリア、ライティングなども含めて眺めているだけで楽しかったです。普通にあのインテリア売ってたら買いそう。
運転するわけでもない車とか、ふと引きのショットで見える街並みとか、世界観のビジュアル面が好みでした。
悪い意味での人間らしさが残る
AIロボットが家庭にいることも普通で、クローン技術で生成されたクローン人間が働いていて家族になっている。
その自然さの取り入れ方も結構おもしろくて。というのもレプリカントよろしくまあ人間からの差別意識というのもあるようなのです。
お隣さんの娘たちはクローンで、それに対してジェイクがクローン嫌いだというのをチクチク指摘されるシーンなど、現在の人種差別やセクシュアリティへの偏見などに通じる、”残念な意味での人間らしさ”があるのが良いですね。
ここは人間らしさとは?という問いかけに対し、AIとかと異なって合理的でなく愚かな意思決定をしてしまうという皮肉が入っているように思いました。
画面アスペクト比
個人的に気になったのはアス比を割と変えているところ。多分普段は普通の横長タイプであった気がします。シネスコ的な。
それがビデオ通話なんかだとその通話画面をそのまま出す演出か、ほぼ正方形になっています。
また、記憶をたどる映像や階層では、画面いっぱいのビスタサイズっぽい画角になっていました。
人と人の物理的/空間的な距離感と、今との時間的な距離感とで使い分けているのかなと思います。
ビデオ通話は一緒にいないけど空間を超越した対話です。
そのほかは空間としてはその場にいるけれど、時間を超越してスクリーンに映し出されていて。
見逃していた世界の美しさ
ヤンの記憶デバイスを覗き、ジェイクが知っていくのはヤンが向けていた眼差しであり、そしていつもはふとした流れで気にも留めていなかった、家族の姿と世界の美しさです。
あのシークエンス、その映像と音楽だけですごく心を奪われました。
何気ないほんの数秒。
家族の姿、木々のざわめき、日の光。
テクノロジーに忙殺されている人類にとって、見えにくくなっている世界をもう一度確認させてくれました。
ただ、ヤンの記憶を巡っていくのはまたいろいろな疑問を提示します。
まずはコゴナダ監督が入れ込むアジア性、アジア人というのは何かという問い。
ミカは学校の友達から”本当の家族ではない”と言われます。それはおおよそルックからくるものであり、養子であることも影響しています。
アジア系の特徴を見た目に持つから、白人の父と黒人の母のもとにいるミカは浮いてしまう。
それに対してヤンは素晴らしく優しい、木の話をしてあげますね。
アジア人とは?
ヤンのモデルもアジア系。ミカにアジア系について教えるにはヤンもアジア系とは何なのかを知る必要がある。
しかしそこに明確な答えなどあるのでしょうか。
どこから来たかは忘れてはいけませんが、しかしそれに縛られる必要はない。
それはひいては人間のあり方として感じられます。
ただそこでもう一つの疑問が。
人間とは何か?
人間が文化背景をベースに、記憶の集合体として存在するなら。
であればヤンはどうでしょうか。
モデルとしての人種的背景設定を与えられ、記憶デバイスとしてアーカイブを持っている。
機械ではありますが人間の要件を満たしているのではないでしょうか。
最終的な結論として、私は愛を向けられていけば、そこに魂を認めうると解釈しました。
もしも人間に要件があるなら、それは愛情を向けられていることかもしれません。
ヤンは機械ですから、処分されたり展示されたりします。
でもその事実に心を痛める人がいれば、それだけでヤンは人間だったという証明です。
静けさの中で進んでいくタイプで、詩のような哲学のような穏やかな作品。
合う合わないが分かれそうですが、記憶や存在というものを映像で表現していくのがとても美しい作品でした。
というわけで感想は以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ではまた。
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