「白い牛のバラッド」(2020)
作品概要
- 監督:マリヤム・モガッダム、ベタシュ・サナイハ
- 脚本:マリヤム・モガッダム、ベタシュ・サナイハ、メルダード・クーロシュニヤ
- 製作:エチエンヌ・ドゥ・リコ、ゴーラムレーザ・ムーサヴィ
- 撮影:アミン・ジャファリ
- 編集:アタ・メラッド、ベタシュ・サナイハ
- 出演:マリヤム・モガッダム、アリレザ・サニファー、プーリア・ラヒミ・サム 他
これまでにもタッグを組んできたマリヤム・モガッダムとベタシュ・サナイハ二人の監督が、冤罪による死刑で夫を失った女性と彼女の前に現れた夫の友人という男とを通して、イラン社会の不条理をあぶりだす作品。
監督でもあり今作の脚本も手掛けている俳優マリヤム・モガッダム(「閉ざされたカーテン」など)が主演も務めています。
今作は第71回ベルリン国際映画祭金熊賞&観客賞にノミネートされました。
しかし、イラン国内にてはその検閲により上映中止にされてしまっています。体制に対して批判的である作品が非常に厳しい検閲をされてしまうのは残念ですが、海外では公開がされていて何よりといったところ。
今年は死刑制度に関して扱うイラン映画が多い中で、今作もそこに女性に対する差別も加えて描くとのことで、予告編を見てから楽しみにしていた作品です。
公開週末には行けなかったのですが、次週平日夜の回に鑑賞。
平日の遅い回であったためか空いてはいました。
~あらすじ~
テヘランの牛乳工場で働きながら耳の聞こえない幼い娘ビタを育てるミナは、1年前に夫のババクを殺人罪で死刑に処せられたシングルマザー。
今なお喪失感に囚われている彼女は、裁判所から信じがたい事実を告げられる。
ババクが告訴された殺人事件を再精査した結果、別の人物が真犯人だったというのだ。
賠償金が支払われると聞いても納得できないミナは、担当判事アミニへの謝罪を求めるが門前払いされてしまう。
理不尽な現実にあえぐミナに救いの手を差し伸べたのは、夫の旧友と称する中年男性レザだった。
やがてミナとビタ、レザの3人は家族のように親密な関係を育んでいくが、レザはある重大な秘密を抱えていた。
やがてその罪深き真実を知ったとき、ミナが最後に下した決断とは……。
感想/レビュー
イランの死刑制度、性差別と体制に挑む意欲作
この映画について作品予告を見たときに、2020年の東京国際映画祭で見たモハマド・ラスロフ監督のイラン映画「悪は存在せず」を思い出しました。
そちらは死刑制度についてその余波を4つの物語で紡ぐもので素晴らしかったのですが、こうして同じDNAを持った死刑制度についての疑問を投げかける作品が生まれるほどに、イランにおいて死刑は重要な議題だということでしょう。
この点は日本も死刑制度を採用し執行もされているため、決して遠い国のことではないでしょう。
身近な恐ろしさを感じるとともに、今作は性差別に対しても声高に批判をしています。
そういう意味で、自ら監督も脚本も、そして主演も務めるマリヤム・モガッダムの覚悟を感じることのできる一本です。
イランでは体制に対する批判は厳しく取り締まりを受け、この作品も先述の通りイラン国内の検閲に引っ掛かり上映中止処分を受けています。
監督としてはもちろん、俳優として、そして映画人としてのキャリアすらも懸けてこの一本を送り出すことには、敬服せざるを得ません。
ベタシュ・サナイハとマリヤム・モガッダム二人の監督は、この女性の生きづらさ、死刑制度と罪についての理不尽さ、さらに神にすら挑戦しているのだと思います。
全ては神の存在をベースに規範を作り出しているにも関わらず、そのルールは不条理に満ちているのです。
不条理と理不尽に複雑に絡み合う罪、罪悪感
おおもとにある話は、冤罪による死刑で夫を失った女性の物語。
そこには
- 母子家庭としてのサバイブ
- 司法制度からの謝罪の引き出し
- 謎の男との交友
が入り混じることになりますが、それぞれに罪そのものと罪悪感というものがさらにレイヤーを重ねていくことになります。
それぞれのバランスのとり方についても非常に素晴らしく、どれかが気づくと抜け落ちるということもなくスムーズにしかし複雑に構成されていました。
根底にあるミステリー→サスペンスの構造が軸に
これはずっと、”レザがいったい何者であるのか”というのを中盤にかけてミステリーとして設けているから続く緊張感であります。
またそれが観客に読み取れたころには、その真実を知られてしまうのかそして知ってしまったとすればどうなってしまうのかというサスペンス構造へのシフトがあるのです。
この転換構造がわりとシンプルに根底にあり、作品の軸となってくれているからこそ、ここまで社会的な問題を複数織り交ぜても見事に見やすい展開になっていると思います。
語り方もあまり直接的な説明はなく、観客もミナも悟っていくという構図は、非常に映画的でよかった。観客と人物が映像を通して感情をシンクロしていく。
多くを語る撮影手法
映画のスタイルとしては非常に抑えられたトーンと色彩を持ち、テーマにおけるふさぎ込んだ感覚やもの悲しさを助長しています。
どっしりと動かないカメラは全体の停滞を思わせており、動きのなさが登場人物の行き詰まりも感じさせます。
また画面構成上の奥行や左右など、建物内での人物配置により関係性を示していく点。
特に今作は体制側と個人との映し方が明確であり残酷でした。
例えばきっかけである冤罪を伝えるシーン。
面会室には捜査官とミナそして義理の弟が座っていますが、カメラはミナ側を向いて固定されており、向き合っている捜査官側つまり体制側は全く映りません。
もちろん大切であるのはミナのリアクションでしょうから、何を映すかは大事です。
しかしここで一切体制側が映されない、同じ画面の中に入らないというのは非常に残酷でありイランにおける個人と体制の隔絶が物語られています。
ミナは何度も裁判所に足を運んでいますが当の裁判官が顔を見せないのも、その隔絶した世界を見せています。
また長回しを多用する手法も効果的に思いました。
長回しには現実をとらえる力を感じます。
私たちの現実には(睡眠があるけれど)カットは割られません。
常に続いていくしかないのです。
たとえあまりに非情な現実や罪の意識に苛まれていたとしても、それがどこかで区切られるということはありません。
その苦しさや居心地の悪さをこうしたロングショットという手法によって観客にも体感させているのですね。
女性の生きづらさ
イランにおいてのシングルマザーの苦しさ。
男性がいないと一人前の扱いもない中で、しかし新しい男性の影が見えるだけで大家から家を追い出される。
そして未亡人というステータスを理由に、仕事探しも難航してしまう。
すべてが負の方向に逆風としてミナに吹き付けている。
娘のビタが救いのように見えて、子役の可愛らしさと合わせ僅かな希望ですが、やるせなさすぎる。
不条理な神の法の前に、贄となる牛
今作のタイトルにあり、始まってすぐと終わりに挿入される”白い牛”。
牛は供物、生贄の意味合いがありますね。コーランに基づいたイスラムの法律。そこに制定された死刑。
神の言葉をもとに制定しているから、冤罪があったとしてもやむを得ないという主張。
神と言う割に賠償金で解決しようという姿勢には少し呆れますが、その犠牲になる牛は白い。
つまり無実であるのです。
白い牛を思い起こさせる牛乳は鍵となるアイテムです。
ミナの働いているのは牛乳の瓶詰め工場ですね。そして最後にも牛乳は使われる。
神の名のもとに体制を作り上げ、たとえ冤罪が起こるような余地をはらんでいてもそれもまた神のご意志だと死刑制度を続ける。
私たちは自分自身がそこに置かれる可能性を持ちつつ、ただ牛を眺めていくのです。
不条理に飲まれ、制度に従い若者が命を落とし罪なき父が殺される。
その仕組みに組み込まれた男もただずっと罪の意識に苦しむ。不可逆的すぎる理不尽を前に、映像でできる叫びをあげた今作。
本国では観られない。だからこそ、こうした叫びをその外にいる私たちが聞いてあげなくてはいけません。
それこそが、映像という国際言語が持ちうる力なのですから。
素晴らしい魂をもつ作品だったと思います。ぜひ鑑賞の機会があれば観てほしいですね。
今回の感想は以上。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
それではまた。
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