「娘は戦場で生まれた」(2019)
作品概要
- 監督:ワアド・アルカティーブ、エドワード・ワッツ
- 製作:ワアド・アルカティーブ
- 製作総指揮:ラニー・アロンソン=ラス、ベン・デ・ペア、ダン・エッジ
- 音楽:ナイニータ・デサイー
- 撮影:ワアド・アルカティーブ
- 編集:クロエ・ランバーン、サイモン・マクマホン
- 出演:ワアド・アルカティーブ、サマ・アルカティーブ、ハムザ・アルカティーブ 他
死者ばかりが増えていくシリアの惨状。アサド政権が反体制派を攻撃し、そこにロシア軍なども加わって起きたアレッポの包囲網。
2012年の平和的でも活動から、2016年までにつづいた包囲網と反体制派の降伏。
これはアレッポで大学生だったワアドさんが21歳の時から、5年にもわたり500時間以上の撮影記録を使用して作り上げたドキュメンタリー。
自分の街を、自由を守るために戦い、彼女は活動家になり社会ジャーナリストになり、人々を助けながら母となった。
ワアドさん自身が監督として自身の撮影記録を編集構成し、また「Escape from ISIS」などドキュメンタリー映画を多く手掛けてきたエドワード・ワッツ監督が今作の共同監督を務めます。
今作は各映画祭で高い評価を受け、アカデミー賞においてもドキュメンタリー映画賞にノミネート。
日本でも2020年の初めの方で公開されていましたが、ちょうど新型コロナが日本にも入り始めてきたころと重なり、また日程が合わずに見に行けなかった作品。
今回はアマゾンプライムビデオで配信されているのを見つけたのでやっと鑑賞できました。
~あらすじ~
ジャーナリストに憧れる学生ワアドは、デモ運動への参加をきっかけにスマホでの撮影を始める。
しかし、平和を願う彼女の想いとは裏腹に、内戦は激化の一途を辿り、独裁政権により美しかった都市は破壊されていく。
そんな中、ワアドは医師を目指す若者ハムザと出会う。
彼は仲間たちと廃墟の中に病院を設け、日々繰り返される空爆の犠牲者の治療にあたっていたが、多くは血まみれの床の上で命を落としていく。
非情な世界の中で、二人は夫婦となり、彼らの間に新しい命が誕生する。彼女は自由と平和への願いを込めて、アラビア語で“空”を意味する“サマ”と名付けられた。
幸せもつかの間、政府側の攻撃は激しさを増していき、ハムザの病院は街で最後の医療機関となる。
明日をも知れぬ身で母となったワアドは家族や愛すべき人々の生きた証を映像として残すことを心に誓うのだった。
すべては娘のために――。
公式サイトから抜粋
感想/レビュー
ドキュメンタリー映画というのは事実をそのままに切り出しながら、しかしやはり映画として構成した物語として作るものです。
ニュース映像ではないし、フィクションでもない。
愛とそこに生きた人の人生を映す
絶妙なポジションにいると思います。この壮絶な物語をどのように扱うのか、そこでワアド監督は素晴らしい判断をしたと感じます。
この映画を凄惨なアレッポを映し出すだけのものにせず、破壊と殺戮を薄めないながらも、それを映し出す映画にはしませんでした。
ここに詰まっているのは、アレッポの反体制派の活動から包囲網の中で生き残った、人々の人生。
そしてまさにこの作品のタイトル”サマへ”にあるように娘であるサマへの両親やその仲間たちの人生と意義を記録するものです。
だからこそ強烈に個人的であり、そこで作品を観終わったときに残るのはアレッポの惨状というものではありません。(もちろんその残虐な行為はトラウマのように観客に深く刻まれるものですが)
むしろこの残酷な世界において愛や正義、自由を貫き、切なくも笑顔が残る映画です。
日常と非常事態の近接
映画が始まるのは包囲網下での病院内。そこで今作のまさに主人公たるサマに出会います。
可愛らしいサマと彼女に話しかけるワアドの会話は、なんとも愛しい母子のそれです。とても微笑ましい。
しかし、その直後にこの日常が置かれた状況が分かります。
砲撃を受け、カメラの目の前の廊下が煙に包まれる。日常、大切なものと非常事態のあまりに危険な隣り合わせに震えます。
交互に示されるアレッポから見える想い出と喪失
時系列を前後しながら見えるのは、自由なデモや大学生活から仲間たちとの出会い、結婚と出産などの幸せな日々。
もちろんその外では自由のための闘いが続いていますが、家を手に入れて植物を植えたり、再生を示すような想い出はなんとも美しいです。
ただカットを変えれば時間が進んだり、包囲生活が進むことでアレッポの街並みはどんどんと荒み瓦礫に溢れるものに変化していきます。
組み替えられている時間軸の流れについては、おおよその侵攻の状況を把握をさせつつも、何が壊され失われたのか。その崩れ去るものにより親密で個人的な意味合いを持たせ、観客に共有する機能があると感じました。
ただの瓦礫ではない。みんなと診療を頑張った場所。ここから家族の物語を始めようとした場所。
構成にしてもやはりこの作品を、ただの戦争の記録ではなく、誰かの人生であるという感覚を強めていると思います。
耐えがたくも目撃すべき事実
弟の亡骸をみて涙する兄弟たち、息子の遺体を自分で運ぶという母。市民が虐殺され、そこで病院内にいる視点として何もできない悔しさ。
ワアドがスマホで撮影しきたそれらを現実の生々しい姿です。外部メディアが何かしらのしがらみの中や、伝えたいとするストーリーに沿って撮ったものではない。
眼を背けたいような惨状がそこにありますが、手持ちカメラで容赦なく映すそれらこそが、外部にいる人間として本当に目にすべきものなのです。
この映像は掘り起こされたものではない。
その時に、2016年の包囲網が敷かれた時期にすでにSNSを通して配信され、そして劇中でも映像が残っていますが、夫のハムザが世界に発信されるニュース取材に応じています。
今分かったことではない。その時現在進行形で示されていた惨劇です。
しかしその取材映像で分かるように、ものすごく距離がある。他人事感がある。
「引き続き情報発信をしてください。」とハムザが言われていますが、なぜ発信しているのか。
アサド政権側の蛮行をそのまま流し、ロシア軍の空爆についても名指しで批判しているのに、何もできていない。
もちろん自分含めてです。2016年の示される時期、自分が発信されていた情報にすら耳を傾けていなかったことを恥じています。
国際社会というものを組み、国連を用意し民主化を謳歌するようなことをしていて、その実で何の正義も果たせていないこの世界は責任を問われるべきでしょう。
守ろうとした日常と追い求めた幸せの記録
ただ、その追及に至るプロセスが今作の魂です。
ワアド監督は21歳の時から映像を撮り始め、シリア国内の報道がこの残虐な行為を言及しないことに対して行動を起こしました。
それは歪みない事実を映し出しただけでなく、ハムザとの出会いと絆、結婚から妊娠、様を出産するまでなど彼女自身の人生のフッテージになっている。
非常事態の中で懸命に日常を作り幸せを守ろうとしたその姿が、親密で個人的なストーリーとして私たちに届くのです。
だからこそ、最後のモンタージュが素晴らしい。
ここまで様々な光景を、思い返すのもつらい光景を目の当たりにしてきたこの作品が最後に見せるもの。
それは日常と笑顔、ワアドさんが出会った人たち、一緒に戦ってきた人たちの楽しい思い出なのです。
政治的な意味も人道的な意味でももちろんシリアの現状は伝えなければいけません。
ただ、何のために戦っているのか、戦ったのか。守るべきなのは普遍的な人々の日常と愛情なのです。
作品を作るうえで、体験を思い出すことが必要だったことで、それ自体が大変だっただろうと想像します。
その勇気と作品に感謝します。
なかなかに観るのが大変な作品でしたが、映画館では見逃したものの、こうして配信でも観ることができてとても良かったです。
現状今作同様にロシア軍が人道に反する兵器を使用してウクライナを進行しています。国際社会は同じことを繰り返すのか、変わるのか。
「ラッカは静かに虐殺されている」、「ラジオ・コバニ」などシリア国内のことを伝えるドキュメンタリーは多い中でも素晴らしい作品です。
というところで感想はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
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