「ラジオ・コバニ」(2016)
- 監督:ラベー・ドスキー
- 製作:ジョス・デ・パター
- 脚本:ラベー・ドスキー
- 撮影:ニーナ・ボドゥー
- 編集:クサンダー・ネイストン
- 音楽:ユホ・ヌルメラ
- 出演:ディロバン・キコ 他
IS(イスラム国)により侵略を受け、その後クルド人民防衛隊が激しい戦いを繰り広げ解放された街コバニと、そこで復興のためにラジオ局を立ち上げた大学生ディロバンを追うドキュメンタリー。
監督のラベー・ドスキーはショート含む多くのドキュメンタリーを手掛けてきた方で、この後、「Meryem」でもコバニにおけるクルド人民防衛隊に所属する女性たちのISとの戦いを描いています。
映画は日本でもアップリンク配給で2018年に公開されました。
公開時には存在も知らず、今回「ラッカは静かに虐殺されている」からの関連で発見。
Amazonプライムビデオにて配信されているのでそちらにて鑑賞しました。
2014年9月。シリア北部にあるイスラム教徒の多い街コバニは、IS(イスラム国)の侵略を受け、多くの市民が虐殺、女性たちは拉致され売り飛ばされた。
その後クルド人民防衛隊と連合軍はISと激しい戦闘を繰り広げ、2015年1月にコバニは解放された。
アレッポの大学に行っていたディロバンは、コバニに戻るのだが、侵略と戦闘で街は完全に荒廃していた。
ディロバンは友人と共に手作りでラジオ局をはじめ、復興へ向け人々を鼓舞する活動を始める。
シリアの現状を知るという機能において、これはその侵略と戦闘の生々しさも恐ろしさも見せることを機能として果たします。
ただ個人的には、その刻み込まれてしまった傷と、それでも明日を生きようとする人たちの美しさにフォーカスが当てられている作品と感じました。
戦闘の記録映像の緊迫した模様や、爆撃の瞬間の恐怖。
そこには普通に女性兵士が多くて、これは中東における女性の従軍が普通なことなのか、または彼女たちもコバニを守る市民として立ち上がっているのかと考えさせられます。
臨場感という言葉が適切でないのは分かりますが、心臓が締め付けられる思いです。
しかし、その戦闘よりなによりも、残された傷跡が目を覆いたくなるものです。
注意にもあるのですが、荒廃した街中で、もうただの近所のおじさんとかが亡くなった人の掘り返しを行っているんです。
その現場をカメラは捉えるわけですが、損傷の激しい遺体の、だらりとした脚が重機からこぼれだす様は吐き気がするものです。
あまりに惨く、観るに堪えないですが、カメラはその作業者、そして近くに集まっていた子どもの顔を映し出します。
選択の余地なくこの光景を見せられている子どもたちに、どうしてこうなったか説明できません。
でもずっと、コバニで起きたことを語り継がなくてはいけません。
忘却されてはいけない魂や、思いがそこにあるからです。
そして、決して憎悪や戦争で何を得ることはできないと教えるため。
将来に残す声であると同時に、ラジオは文化、文明であるとも感じました。
無線から流れてくる敵の位置情報ではなく、ラジオから「おはよう、コバニ」という声が聞こえるだけで、ほんの少しでも日常が取り戻せると思うのです。
外は荒廃し、死が漂っていても、変わらない日常を象徴するような、拠り所になれるラジオがあるというのは素敵ではないでしょうか。
だんだんと戻っていく日常を見せながらも、なお友人の死や消えない傷が剥き出される。
非常に過酷な現状を真正面から伝えるとともに、醜悪の中に人間は美しいものを作れる証明のようなドキュメンタリーでした。
感想はこのくらいになります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
それではまた。
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