「聖地には蜘蛛が巣を張る」(2022)
作品概要
- 監督:アリ・アッバシ
- 脚本:アリ・アッバシ、アフシン・カムラン・バーラミ
- 製作:ソル・モンディ、ヤコブ・ヤレック、アリ・アッバシ
- 音楽:マルティン・ディルコフ
- 撮影:ナディム・カールセン
- 編集:ハイェデェ・サフィヤリ、オリヴィア・ニーアガート=ホルム
- 出演:ザーラ・アミール・エブラヒミ、メフディ・バジェスタニ、フォルザン・ジャムシードネジャド、アーラシュ・アシュティアニ 他
「ボーダー 二つの世界」のアリ・アッバシ監督が、2000年~2001年にかけてイランでおきた連続娼婦殺人事件をもとに、その犯人と取材をするジャーナリストを描くサスペンスドラマ。
主演はザーラ・アミール・エブラヒミ。彼女の今作での演技は非常に高く評価され、カンヌ国際映画祭では女優賞を獲得しました。
アッバシ監督はもともとイランで撮影がしたかったそうですが、題材や主人公のジャーナリストのヒジャブの問題などがあり当局から許可が下りず、結局撮影はヨルダンで行ったそうです。
イラン映画界は結構体制に対する批判やセンシティブな内容に対して厳しく、「白い牛のバラッド」なども上映禁止を受けたりとしていますね。
今作も公開についてイラン側から非難声明が出されたりとかなりもめていたようです。
私としてはアリ・アッバシ監督の新作とあれば観たいと思っていたところで、背景に関してはあとから調べた程度です。
公開週末に早速観に行ってきたのですが、入りはそこそこな感じでした。
~あらすじ~
イラン東部の都市聖地マシュハド。
夜の街では娼婦が並び、ビジネスが行われている。その街で娼婦ばかりを狙う連続殺人が起きていた。
犯人は自ら「街を浄化する」として犯行声明を出しており、”スパイダー・キラー”と呼ばれ恐れられている。
事件を取材するために地元であるマシュハドに戻ってきたジャーナリストのラヒミ。
彼女は仲間のジャーナリストと共に真相と犯人究明のため奔走するが、そこには根深い宗教思想と女性への蔑視、巨大な圧力が渦巻いてた。
宛てにならない警察当局に変わり、ラヒミは自らの危険を冒してまで闇の奥へと踏み込んでいく。
感想/レビュー
人間社会の暗部をむき出しにする
アリ・アッバシ監督のカンヌある視点部門受賞作品「ボーダー 二つの世界」の衝撃は今でも鮮明に覚えています。
人間社会に根付いている差別や優劣の意識をファンタジックなおとぎ話の中でさらけ出すことで、否応なしに不愉快な気分をもたらす。
それをもって私たちの世界の闇を噛みしめていくわけですが、その機能は今作でも十分に発揮されています。
前作よりも質が悪いのは、今作が実話をベースにしていること。
つまりおとぎ話ではなくて実際の人殺しと差別、歪んだ英雄思想について目の前にさらされるのです。
逃げられるわけのない事実、否定できない人間の醜悪さと社会の機能不全には、憤りを覚えて吐き気をもよおすほどでした。
女性への差別と歪んだ正当化
主人公ラヒミを演じたのは、自身も性的なスキャンダルの被害をこうむり、イランから自フランスへの亡命を余儀なくされたザーラ・アミール・エブラヒミ。
もともとラヒミの役は別の俳優が選ばれていましたが、ヒジャブを外しての演技を怖がってしまい、ザーラ・アミール・エブラヒミと交代したそうです。
アッバシ監督もはじめはサーラを、ラヒミには精錬されすぎていてやわらかいのではと考えていたそうですが、自身の過去も踏まえてリスクある選択をする様こそラヒミに合っているとしてキャスティングを決めたそうです。
ラヒミの前職ではなぜか”女が悪い、不潔だ”とされて左遷され職を失うことになっています。
さらに到着したホテルではコメディかと思うような女性蔑視にさらされてしまいます。
あまりにおかしいのにそれが正当化されている。
イスラム教の当局としては、「問題は売春せざるを得なくさせている貧困である」と発言もあるものの、警察すらもセクハラをしてきて頼れないですし、イスラム社会全体としてこの問題を真剣にとらえていません。
女性たちに、娼婦に対する根底の差別意識が、捜査を遅らせたりそもそもまともにしていないのは、「ロストガールズ」にも似た点があります。あちらも実際の事件でありいたたまれない。
個としての描写が議論を加速する
今作のというか、実在の殺人鬼サイード・ハナイは、決して気性の荒い人間には描かれません。幼い娘とも遊ぶし、息子と妻を想う人間。
普段からDVがあるわけでもなく、マッチョな男でもない。
アッバシ監督はサイードに複雑な眼差しを向けています。彼と共に犯行を重ねるシーンを入れ、半分は彼の視点で今作を作っている。
そこにはサイード自身の葛藤もあったかと思いました。若い時代を戦争に捧げるものの、別段英雄的なこともなく、戦後にはただの一般人。
彼自身の存在価値というモノを、彼が信じた信仰は与えてくれませんでした。
何か意義を見出すために、とにかく信仰にすがっているようにも思えます。
サイードが冷酷な殺人鬼なのは間違いないものの、純粋な悪というよりも、かれもまた大きな宗教や社会的な枠組みにおける被害者にも読み取れます。
一方で女性たちに対してもアッバシ監督は個としての描写を忘れません。
ラヒミとの会話から名前を出していたり、OPでの被害者は出かける前に自分の幼い子を寝かしつけていく描写があったり。
街にいる娼婦、薬物依存者という単純なレッテルではなく、そこに生きる人だということを刻み込んでいます。
この双方の生きている人間としての触感が、議論を呼ぶ。
この論争はイランだけのものなのか?
フェミサイド(性別を理由とし女性を殺害する)を扱う作品として、それぞれの視点から闇へと切り込む。
サイードの息子たちが、父の行動が全く正しいと主張し殺害と遺体の遺棄を再現して見せていく様子は、恐ろしさと憤りと、気味の悪さがまじりあいすごく居心地が悪い。
ただこの様子に関して、俯瞰している場合ではないのです。
イランの社会が、イランの宗教的背景が・・・と他人事にしてはいけない問題です。各国で、日本で、やはり女性への蔑視と差別が根強く見える。
日本ではよく、痴漢や性犯罪に合った女性に対して「そんな露出の高い服装をしているからだ。」とまるで女性に非があるかのような声を聴きます。
不倫でも男は笑いのネタになったり社会的な復帰が入野に対して、女性側は徹底的にバッシングされ悪者になりそして社会的に抹殺される。
日本も性別での不均衡と女性を非難する傾向はかなり濃いと思います。
その意味でも、議論を進めることや意識をもつことに、この映画が持つ役割は大きいのではないかと感じました。
サスペンスであり個のドラマであり、その先にあるとても深い闇の入口へ観客を立たせる作品でした。お勧めです。
今回の感想はここまでです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ではまた。
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