「ジョーカー」(2019)
作品解説
- 監督:トッド・フィリップス
- 脚本:トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー
- 原作:ボブ・ケイン、ビル・フィンガー、ジェリー・ロビンソン
- 製作:トッド・フィリップス、ブラッドリー・クーパー、エマ・ティリンガー・コスコフ
- 製作総指揮:マイケル・E・ウスラン、ウォルター・ハマダ、アーロン・L・ギルバート、ジョセフ・ガーナー、リチャード・バラッタ、ブルース・バーマン
- 音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
- 撮影:ローレンス・シャー
- 編集:ジェフ・グロス
- 衣装:マーク・ブリッジス
- 美術:ローラ・バリンガー
- 出演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイ、ビル・キャンプ、シェー・ウィガム、ブレット・カレン 他
DCコミックのヒーロー、バットマンの宿敵として名高いジョーカー。これまで多くの映画版バットマンに登場してきたこのヴィランの、オリジンに迫る単独作品。
監督は「ハングオーバー」シリーズのトッド・フィリップス。
そしてジョーカーになるアーサー・フレックを演じるのは「ビューティフル・デイ」などのホアキン・フェニックス。
共演にはロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイ。
この作品は完全に独立した作品となるため、「マン・オブ・スティール」「ワンダーウーマン」などを展開するDCEUとは関わりません。
その点では一切の予備知識なしで、コミック原作映画だと身構えずに観れるようになっています。
もともとホアキンのジョーカーということで期待はしていましたが、直近でベネチアの金獅子賞を獲ったことがさらに期待に火をつける形となりました。
さらには内容から暴力性や悪の描き方に議論が起こり、北米の一部劇場ではあのオーロラ劇場での惨劇からか手荷物検査などの強い警戒態勢が取られることに。
まあ日本では特にそんなことはなく。日米同時公開ということで早速週末に観てきました。
R15ですが、かなり人が入っていてほとんど満員。私は今回、IMAXで観ました。
~あらすじ~
80年代のゴッサムシティは、財政難とそれによる治安悪化から荒んだ街になっていた。
そんなゴッサムで、コメディアンを目指すアーサー・フレック。彼はピエロの仮装をして大道芸人の派遣会社で働く。
アーサーは持病を持ち、自身が福祉医療センターで定期カウンセリングを受けながら、認知症の母の介護を一人で行っていた。
うだつの上がらない生活を送るアーサーにさらなる悲劇が襲う。
ある勘違いから仕事をクビになってしまったのだ。
絶望の中夜遅くに電車に乗っていると、酔っぱらったウェイン産業勤めのエリート証券マンが女性に絡んでいた。
そしてそこでの出来事が、縁に追い込まれていたアーサーを堕とすことになる。
感想レビュー/考察
正直に言ってまず、どう扱えばいいかわからない作品でした。
間違いなく良い作品ですが、この新しく出てきたジョーカーの解釈には若干の戸惑いがあります。
まずどこでも言われていますがホアキン・フェニックスはやってくれました。素晴らしいです。
体重をかなり落としてのその歪んでいるといってもいいフィジカルの風貌に、内外に宿るコンテキスト、観客をアーサーとつなげる力。
冒頭で不良を追いかけているときに、ピエロの靴のせいで走り方がヘンテコです。
その走り方が、後半に普通の靴で走っている時でも出ているところとか、役が彼に宿っている。
カリスマ性やその美学などで魅了するのとは違い、まさに涙を流すピエロとしての悲哀に包まれ、この腐りきった社会の中でただ煮詰められ続けた男。
ジャック・ニコルソン、そしてヒース・レジャー。
どうしても避けられない(特に後者)圧倒的な実写映画版ジョーカーを前に、再定義するそして新しい切り口が存在することを見せつけています。
今回のジョーカー、アーサー・フレックには大きくバットマンの世界だけでなく、「タクシードライバー」や「キング・オブ・コメディ」そしてアラン・ムーアのコミック「キリング・ジョーク」が関わってきています。
しかしアーサー・フレックは悪人ではありません。
ただ周囲の環境が彼を追い詰め、傷つけ、虐げ、そして無視し続けてきた。
社会は荒み、貧困と存在の軽さが畳みかけ、救いなどない。富裕層はゴミになど興味はなく、人の生もジョークのネタにする。
普段はその存在もないかのように振る舞い、眼を向けるとすれば笑いものにする時だけです。アーサーは涙を流し、その様を笑われる完全なるピエロ。
自己防衛と、なによりも痛みと悲しみの叫びから、”悪”が産声を上げます。
その”悪”によって彼は逆襲し、この世に存在することができたのです。
しかしここでこの作品がうまく扱えないというか、扱いが危険であるというある要素がみえました。
それは正義の不在です。
これまではバットマンシリーズに、まさにヴィラン(悪役、敵役)として登場してきたジョーカー。
つまり正義があるからこそ彼は悪だったのです。
ヒース・レジャーのジョーカーは善悪を敷く人の欺瞞をぶち壊そうとし、なおも正義を信じるバットマンとぶつかります。
実際に映画「ダークナイト」で、「お前が(バットマン)が俺を完成させるんだ。」と言いますし。
多くのコミック映画はそうでしょう。正義のヒーローと悪のヴィランの対決。
ところが今回、この映画には役割としても社会としても正義がいません。
だからカウンターを失い、アーサーの行動を図るための物差しも比較対象もなくなっているんです。
つまり、アーサーが”悪”であるということも不明瞭になるのです。
クライマックスでアーサーは「善悪を自分で決めることにした。」と言います。
観客はこの作品を観ているうちに、普段の世界から切り離され、腐りきった社会の空気を吸い、虐げられる者に寄り添いステージまで上がる。
非常に長い階段が繰り返し登場し、重要な役割をみせます。登り階段は何とか社会の底辺から這い上がろうとすることと同義です。しかし登れど登れど、アーサーの生活はあのアパートの世界が限界なのです。
あんなに辛い社会に、重々しくも階段を上っているアーサーに比べて、下り堕ちていきながらもジョーカーとして嬉々として踊るほうが晴れやかに思えますね。
アーサーは病気の発作で笑い、他人のジョークには作り笑い。この社会、人生で一瞬たりともハッピーな瞬間はない。
それがついに、アーサーは自分から笑い、笑う側に回ったとき、そこに清々しさを覚えてしまう。
その姿を見ながら、自分の中にある痛みと悲しみから善悪を判断させられます。
そして、アーサーを悪人と言っていいのか疑問を抱いてしまうんです。
善悪の判断を曇らせる要素は他にもあると思います。
それはアーサーの暴力の対象が犯罪者ではないことです。
「狼よさらば」などアンチヒーローはそこに、相手が社会悪であるという言い訳が用意されています。
なので、たとえ殺しや拷問をしても、ギャングや強盗、レイプ魔に誘拐犯相手だからそこにカタルシスを得てしまいます。
ただアーサーが手にかけたのは、いわゆる悪人ではないんです。
これを肯定してしまうのはまた怖いですが、しかし彼の境遇を考えれば、虐げてきた、それに加担してきた、無視してきたものに対しての行為も頷いてしまいそうです。
分断や無関心からジョーカーが生まれるプロセスを通し、観客をロジックに組み入れることで善悪を問う。
もし悪が生まれるなら、そこに悪と認識されない悪があるのかもしれない。
システムとして道化を生み出し、その泣き顔と空虚な笑い、悲劇を喜劇として笑うことを続けると何かが生まれるのです。
センターにて踊り続けるホアキン・フェニックスの力は必見。
これまでのジョーカーを演じた役者たちに見事並び、また別の角度からこのキャラクターを確立しました。
個人的に大傑作とまで言わないのは、実はそのジョーカーというコンテンツの必然性にやや疑問があること。
バットマンとジョーカーという構造に親しんだせいか、このジョーカーがコンテンツとしてのジョーカーを満たすとはちょっと思えず。
またややですが、仰々しい音楽と多すぎかつ寄りかかりすぎな引用にも疲れたのも事実です。
舞台を80年代にしたという点に、SNSなどの排除やブルースとの年の調整とか以外に特に理由を見いだせないことも、微妙な印象を持ちます。
まあいずれにしても悲哀に満ちたジョーカーという切り口にて堂々と現れたヴィランであります。
そして多くの議論を呼ぶことが目的だとすれば、その機能を果たしている作品だと思います。
観る人が見たいもの、感じたいこと、言いたいことを映し出し、吐き出させるような作品にも感じる、どこか扱いに怖さのある映画です。
是非劇場にて鑑賞を。
今回は結構長めになりました。自分も色々と考えさせられたわけですね。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
ではまた。
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