「スペンサー ダイアナの決意」(2021)
作品概要
- 監督:パブロ・ラライン
- 脚本:スティーヴン・ナイト
- 製作:マーレン・アデ、ヨナス・ドルンバッハ、ポール・ウェブスター、パブロ・ラライン、ヤニーネ・ヤツコフスキー
- 製作総指揮:スティーブン・ナイト、トム・クイン、ジェフ・ドイッチマン、クリスティーナ・ジーサ、マリア・ザッカーマン
- 音楽:ジョニー・グリーンウッド
- 撮影:クレア・マトン
- 編集:セバスチャン・セプルベダ
- 出演:クリステン・スチュワート、ティモシー・スポール、サリー・ホーキンス、ジャック・ファーシング、ショーン・ハリス 他
「ジャッキー/ファースト・レディ最後の使命」、「エマ、愛の罠」などのパブロ・ラライン監督が、イギリス王室のダイアナ妃が王室を出ることを決意したクリスマスの日々を寓話として描く作品。
主演にてダイアナ妃を演じるのは「パーソナル・ショッパー」などのクリステン・スチュワート。
また彼女を支える衣装係には「シェイプ・オブ・ウォーター」などのサリー・ホーキンス、王室執務官に「君を想い、バスに乗る」にティモシー・スポールが出演。
また「ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション」などのショーン・ハリスがダイアナと友人関係にあるシェフの役で出ています。
ダイアナ妃が王室を出るまでの3日間という結構スキャンダラスで派手そうなプロットですが、ポスターが公開されたときからかなり内向的な、主観的な作品になることが予想された本作。
私個人としては「ジャッキー」も「エマ、愛の罠」も好きで年間のベストに入れたというパブロ・ラライン監督の新作。
しかもこれまた好きな俳優クリステン・スチュワートが主演を飾るということで大注目だった作品です。
ベネチアでのコンペに始まり話題となり、クリステン・スチュワートが今作でゴールデングローブ、アカデミーで主演女優賞にノミネートしました。
公開週末に早速観に行ってきました。地元の小さなところで朝一でしたが結構人が入っていました。
〜あらすじ〜
クリスマス・イヴ。
イギリス王室は一族が勢ぞろいしクリスマスにかけての3日感を過ごすのが伝統であり、そこにはもちろん王家に嫁いだダイアナ妃も招かれている。
着々と家族が揃い、女王陛下の到着を待つ中で、ダイアナ妃の姿はなかった。
護衛もエスコートもつけず自ら車を走らせたダイアナ妃は道に迷っていたのだった。
王家の集まる屋敷の近く、そこはダイアナ妃の生家にも近い。
生まれ育った土地ですら迷ってしまったダイアナ。
絶えず内部・外部からの視線と監視を受け彼女は肉体的にも精神的にも限界が近かった。
「たった3日。」そう自分に言い聞かせながら、広々とした監獄である屋敷で彼女のクリスマスが始まる。
感想/レビュー
「これはある悲劇に基づく寓話」
そんな一節から始まるダイアナ妃の3日間は、非常に私的で主観的な作品でした。
もちろん全てはダイアナ妃の王室から出ていくことへ通じており、観客の誰しもがさらに先に待ち構える悲劇を知っているでしょう。
客観的な事実こそ揃っていても、もはやダイアナの真意も回顧もない、チェック機能がない中で繰り広げられるパーソナルなドラマ。
そんな難題をパブロ・ラライン監督は見事に描きあげてみせました。
自己を勝ち取る女性の主観映画
王室まわりとかダイアナ妃が辿る運命などの知識は多少なりとも要求はされますし、それを知っておいたほうが作品をより楽しめるということは否定できません。
ただ、これはある閉鎖的な環境下で闘い、苦悩し、脱出する一人の女性のドラマとして素晴らしい完成度を持っています。
その根底のテーマとしては、絶対的な役割を持たされそれに挑戦するという意味ではパブロ・ラライン監督の過去作「ジャッキー/ファースト・レディ最後の使命」に共通します。
ただ今作は幽霊映画でありつまりホラー映画であり、サイコサスペンスのような緊張をたたえた体験映画です。
今作のゴールはそこにある権威、個人のアイデンティティを埋没し飲み込む象徴からの脱出です。
ですからジャクリーン・ケネディが”ファースト・レディ”であるからこそ貫いたその役目とは、反対を向いた作品であると思います。
しかしいずれにせよ、役目を全うするにもそこから離れるにしても、自分自身で自分を勝ち取ったという点では、歴史に残る女性たちに共通項を見出しました。
ビジュアルと音楽で語る純粋な映画
左右が切り落とされた箱のような画面。
軍用車が次々と走り、兵士たちは機関銃でも入っているかのようなケースを運び込む。
実際に蓋を開けてみると、中身は食材です。
ショーン・ハリス演じるシェフの事細かに決められた献立があり何もかもが寸分の狂いなく進められていきます。
ここで非常に興味深いのが、ダイアナにとっての食べ物を武器に置き換えたこと。
ケースの中身は食べ物ですが、それらは間違いなくダイアナに向けて使用される武器なのです。
それは彼女を窒息させ、傷つけ、嘔吐させる。
全てが確定され降り注ぐ食事というものをここまで的確にメタファーにした描写に、OP早々驚愕し圧倒されました。
観ていて苦しい
そして実際の食事シーン。痛々しすぎて辛い。
ビジュアルでできることをフル投入した地獄の晩餐。
ダイアナが台詞を発することはありません。
ただ拘束具のような真珠のネックレスに締め上げられ、国家は彼女を睨みつけ夫は役割の遂行を無言で促す。
精神的圧迫感と焦燥、嗚咽をもよおす気分の悪さ。
大きな真珠を飲み込んでいく描写もまた、白眉と言える映像的な語り口でした。
その他にもカーテンのことなど視覚的に彼女を追い込む環境がメタファーで現れます。
だから、観ているだけで息苦しく辛いのです。
クリステン・スチュワートという圧倒的才能
ダイアナ妃についてはすごく多くの写真もありインタビューもあり、没後も取材とかドキュメンタリーとか暴露本みたいなものも溢れかえっていますね。
自分自身子どものころに、TVでダイアナ妃の死の真相とか、知られざる真の姿・・・なんて特番がすごく多かったのを覚えています。
実際のところそうやって多くが存在するのに、彼女自身をみな外から見ているような気がします。
ここでパブロ・ラライン監督とクリステン・スチュワートは内面を描き出すことに全力を注いだと思います。
体現したクリステン・スチュワート。ただただ好きが増していく俳優です。
OPで登場した時、まさにダイアナ自身をように現すように”迷っている”わけですが、そこで一つのカフェに立ち寄るシーン。
あそこで急にダイアナ妃を纏ってしまう。
少し斜めに、絶妙なささやきのような弱い声で、訛りも完璧で。ここまで着こなしてしまうなんて。あのシーンですでにノックアウトされてしまいました。
幽霊映画としての個人の組織
ただそうした大衆に残されたイメージのダイアナ妃だけでなく、どこか謎めいた空気を持っているところ、恐怖や幻影、不安と葛藤に苛まれているところなどやはり繊細。
ものすごくか弱くてものすごく強い。
幽霊映画的な要素もある今作で、クリステン・スチュワートの属性の幅というか、脆さと芯の強さの両面を持ち合わせたその才能なしには成立しない作品と思いました。
ダイアナ妃とは大衆向けにアイコンとして存在し、今なおおそらく多くの人々が見たい”ダイアナ妃”を投影している。
彼女自身の公的な存在としてのその空虚な器、また宮殿の中における言いたいことを言えない状態、両面をみてまるで幽霊のように思います。
アン・ブーリンはそうした空虚な器のままに処刑されそして霊体となりダイアナの前に現れる。
ダイアナはその対話を通して個人になり、人間としてのアイデンティティを取り戻していくように思います。
ちなみに全体を豪華な宮殿(屋敷)に閉じ込められた人間としてみると、「シャイニング」を彷彿とする点も感じます。
マギーと思って抱きしめた相手が、鏡で映されて年老いた衣装係であると気づく点とか、あのシャワールームのシーンに似ていますしね。
衣装、撮影、音楽・・・要するにすべて
シャネルの協力を得た衣装。
そのきらびやかさにも目を惹かれつつ、周りとの調和に注目すると、彼女だけやや明るめトーンであったり。
それはダイアナが王室になじまず浮いていることであり、そしてまた同時に、彼女は彼女なりに自己主張していること。
この巨大な象徴と権威の中で、ダイアナ・スペンサーを生き残らせようとしているのですね。
また赤、緑、白など色彩が特徴な撮影。往年のホラー映画のような月明かりと霧。シンメトリーの構図、俯瞰。
美しくも窮屈。一つ一つが絵画的で、でも動作を追う素晴らしさ。(撮影はシアマ監督の「燃ゆる女の肖像」などでおなじみクレア・マトンなので当然でしょうか)
そして今作の影の?主役と言えるのが、ジョニー・グリーンウッドの音楽です。
荘厳な感じかと思えばジャズテイストのようになったり、でもやはり精神を追い詰める不穏さを持っている。
端的に言って全セクション最高です。
王室もダイアナも判断しない
とりわけ見事なバランスだったというか、奇跡に思えるのはここまで主観的で私的ながら、決してダイアナを代弁しようとか、王室の善悪を表示しようとかしていない点です。
そういった個人の搾取、題材の批判を感じなかった点は見事なバランスだったと思います。
一見敵に思えるような人物たちについても、それぞれイギリス王室というカテゴリーに属するゆえの役目が見えますし。
ここでは一切、王室の是非とか個人と公人とか議論がなかったと思います。ただ、純粋にダイアナへの敬意と愛が感じ取れました。
別れ
王室のゲームをするように諭すチャールズ。
ビリヤードというゲームの卓を前に今作でほぼ唯一ダイアナが王室(チャールズ)と向き合うシーン。
王室の、国の望むように”嫌なことでもする”必要があるというチャールズはブラックのボールを転がす。
同じ画面には映らない、向き合っているダイアナの前にはホワイトのボール。
カラーにおいても画面構成においても分かたれた二人。チャールズには選択肢がありません。ゲームをするしかない。
ダイアナを誘いますが、外では銃声が響く。否が応でも、ダイアナは息子が”嫌なこと(射撃)”をさせられているのを意識しますね。
最後の投げかけであるボールをダイアナは落としてしまう。決定的な別れをここまで音や映像で描くとは。
嫌なことでもするしかないゲーム。
体重を測るなんて失礼なこともお楽しみで、伝統という過去が今を支配し、何を着るのかという未来も定めてしまう。
そこでダイアナは子どもたちの将来を切り開くため、自分らしくあるために大きな決断をしました。
難しく苦悩に満ちたその決断の濃縮した3日間。
クィアとしてまさに”自分らしくあること”に勇気を出してくれたマギー。
その衝撃と愛、笑いが救いです。
解放を示すかのようなダンスのモンタージュ。幼少期のダイアナから成長して行く、駆け抜けるダイアナ。
やはり自分は自分なのです。誰にもそれを変えることはできないし、無理に変える必要もない。
OPと対になる車を運転するダイアナで幕を閉じていく今作。
しかし今はもう迷っていない。彼女は自分がどこに向かっているか分かっています。
今作のタイトルがなぜダイアナではなく「スペンサー」なのかが炸裂するラストになんとも清々しい気持ちになりました。
ダイアナ自身に肉体と声を与える
多くの記録が残り、写真があり。誰しもが親しみを持っているダイアナ妃。
しかしその親しみはかなり一方通行であり自身の欲求を重ねているにすぎません。
そこでパブロ・ラライン監督は内面と精神に向かっての洞察をほどこし、その面でつながりを持とうと試みました。
そして見えてきたのが圧倒的な孤独。
皆に愛されているといわれても、自分という存在すら実感をもって感じ取ることができない。
今作はそんな幽霊のような”ダイアナ妃”に、肉体と声と人間性を与えていると感じます。
アイコンとして多くの人が自分なりにイメージを持っている。そんな中で精神でつながることを成し遂げた傑作だと思います。
また、このダイアナの自己の保全や解放はいつの時代にも響くストーリーですから、まさに寓話にふさわしいものでした。
全セクションのレベルの高さ、演技、監督の視点と手腕。何をとっても愛すべき作品。
これまでも圧倒されてきましたが、今作もまたパブロ・ラライン監督のレガシーになり、私にとっても年間ベスト入り確実な映画でした。
これはぜひ映画館で見てほしい作品です。
おすすめ。
今回は少し長く、またとりとめのない文章になってしまいました。
感想はこのくらいにします。
ではまた。
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