「パーソナル・ショッパー」(2016)
- 監督:オリヴィエ・アサイヤス
- 脚本:オリヴィエ・アサイヤス
- 製作:シャルル・シリベール
- 製作総指揮:ジュヌヴィエーヴ・ルマル
- 撮影:ヨリック・ル・ソー
- 編集:マリオン・モニエ
- プロダクションデザイン:フランソワ=ルノー・ラバルト
- 衣装:ユルゲン・デーリング
- 出演:クリステン・スチュワート、ラース・アイディンガー、アンデルシュ・ダニエルセン・リー 他
「アクトレス 女たちの舞台」(2014)のオリヴィエ・アサイヤス監督の新作。同作でも組んだクリステン・スチュワートを主演に迎えた本作は、カンヌ映画祭で上映され、アサイヤス監督は「エリザのために」(2016)のムンジウ監督と共に監督賞を受賞しました。
宣伝もある程度はしている様子で、電車のモニターで予告を観たときはびっくりしましたw
そうは言っても公開規模は大きくはない様子です。私としては便利なところ、TOHO六本木でやってくれたので、初日の夜の回で観てきました。
って、人いなかったなぁ。「ネオン・デーモン」は若い女の子が来たりしていたのですが、こっちは年齢層高め。アサイヤス監督に、最近すごく気に入っているクリステン主演というのもあって、個人的にはすごく楽しみな作品でしたよ。
フランス、パリ。モウリーンは双子の兄ルイスがこの地で亡くなって以来、パリに彼のサインを求めて滞在していた。兄もモウリーンも霊媒師であり、先に死んだ方が死後の世界を証明するため、何かしらのサインを送ると約束していたのだ。
兄の存在を感じようとする一方で、彼女は有名モデルのパーソナル・ショッパーとしても働いていた。セレブのために衣装やジェリーを買い付けに走る。
そんなある時、彼女の携帯に謎のメッセージが送られてくる。
観終わったその瞬間では、どう感じるのでしょうね。アサイヤス監督は曖昧さをずっと残したような作品ですから、そのぼやけた印にイマイチパッとしない印象を持つかもしれません。
ただ、私としては全く素晴らしく明快さと曖昧さが混在した不思議で心地よい感覚が残されたと思います。不気味ながらも安心するような。
この作品を観始めてまず感心してしまうのは、ヨリック・ル・ソーによる撮影ではないかと思いました。とにかく最後まで撮影を楽しみましたね。
もちろん始まってすぐの屋敷を歩き回るモウリーンをワンカットで追うのもすごかったです。あそこでは闇は闇としてもうクリステンの顔も見えないように真っ黒。そこに世界の音、風や木々、床に空気そのものの音まで詰まっていて、ここだけで映画館で観なければいけない作品だなと確信しました。
その後も「アクトレス」の時から驚異的だった、電車内での撮影に、バイクに乗りパリを走るモウリーンまで撮影技術のすさまじさだけでも感心しながら観ていました。
しかし、ただ単に長回しがすごいとか、車内や路上でのシームレスなシーンがすごいというだけではなく、今作はその撮影技法それ自体が必然であり意味を持っているところが一番好きなのです。
屋敷で霊との交信をしようとするモウリーン。あまりに長いカットは、撮影者の存在を意識させてしまうことから、諸刃の剣的な注意が必要なのですが、今回はそれをあえて使っているのですね。
あからさまに撮影、つまりはモウリーンを捉える視点を観客に意識させることで、誰かがいるという存在の感触をそのまま伝えているのです。巧いなぁ。
ですから、電車やバイクでのモウリーンを捕えるのも重要ですね。何せこの視点は、本来はカットされてしまう移動にすらくっついているのです。目的地とか特定の場所にいるのではなく、ずっとモウリーンについて回っている。
この作品の扱うものと撮影自体が密接に結びついていて、必然性からくる説得力が違いました。
そうしてずっとセンターに映されているのが、クリステン・スチュワート。正直今でもトワイライトの女の子とナメていた自分が恥ずかしく申し訳ないw
「アリスのままで」(2014)、「アクトレス 女たちの舞台」(2015)ときて完全に彼女に魅せられています。今回もまさにリードとして素晴らしかった。
モウリーンの揺れ動きを見事に演じていたと思います。好奇心と恐怖、渇望と不安。
怯えた仕草に対して、あのテキスト打ち間違いも演技でやってるならホントに芸達者です。キーラの衣装を着ていくシーンでは、それまでと打って変わって豹変したような風貌になるのも素敵です。変身ですね。
正直この作品がフワフワする一つの理由には、ジャンルの切り替えと並行した多さがあると思いました。スリラーでありミステリーであり、ホラーでもあるうえに、それらがどれとも決め難い流れで切り替わる。
私としてはそれらを全部繋ぎ止めて、自らを集約点とすることで文字通りひっぱってみせたクリステンが本当に類まれなものなのだと思ったのです。
さてと、この作品ではメディアがこれまた非常に重要なものに考えられました。
モウリーンは霊媒師(そのまま媒体)であったわけですし、彼女はまたメディアを通じて過去や別の存在とつながっていきます。もちろんあのスマホのシークエンスはとても珍しいスリルを感じるものです。ただバイブが鳴るだけで、怖さと不安がありつつも、次の展開が気になるというのがすごく楽しかった。
で、そのスマホなんですけど、これもメディアですよね。まったく知らないものとつながる媒体。モウリーンは謎のメッセージを送る主とこれを通して意思疎通するのですが、それだけではないです。
彼女は印象派の画を最初に描いたとされる女性、さらに昔霊と更新したグループなどの動画を観ています。そのスマホそして動画を通じて、過去とその人間たちに接触するわけです。
PCでも彼女はキーラを検索し、彼女の世界に触れなにより彼女に触れています。
パーソナルショッパーとして秘めていた、別の存在になることの欲望は、謎のメッセージによって助長されていきますが、私はモウリーンがメディアを通してずっと過去や他人と自分を重ねる姿から、メッセージの送り主がモウリーン自身の潜在下のエゴにも感じました。
彼女自身が彼女を解放しようとしているのかと。
終着点に向かったとき、少し安易な着地かなと感じたその先。アサイヤス監督はやってくれたと思います。
単に兄の亡霊や過去を捨てて、何やら新天地でリスタート的な軽薄な流れに・・・と思ったら、行った先にあるシーン。
あそこでまた長回しがあるのですけども、また何かの存在と触れ合うのです。
で、一番すごいと思ったのが、観客の認識をこれまた逆手にとって仕上げてみせたところ。ここでモウリーンが何かに話しかけて、交信しようとするのですが、叩くような音が1回ならYES、2回ならNOといった具合で意思疎通しているように思えますよね。それはもちろん、観客は序盤であの歴史上の霊との交信の記録を観ているから。
でも、このシーン、モウリーンはそんなルール決めを言ってはいないんです。
ただ単に彼女は質問し、そうしたら音が聞こえるというだけ。
最後にカメラを観てモウリーンは言います。”Or is this just me?”「それとも全部私の気のせいなの?」
散々に過去や他の存在と、それが確実にいるという認識の下で必死に相手を探していたモウリーンが、ラストでふと見つめるのが彼女自身なのです。非常にキレのいいラスト。
アサイヤス監督はメディアを巧く置き、そして映画のメディアも使いこなす天才っぷりをみせています。
何かの媒体を通して見る時間も場所も越えた存在たち。現実の社会はそんなものに溢れそれに執着していますが、モウリーンはその中から自分を見つけることへたどり着いたように思えます。他をみることで初めて自己をみる。
ミステリアスかつ曖昧で、スリラーとして素晴らしい緊張を持ち、それを全て華麗にリードできるクリステン・スチュワート。彼女のショーケースとしても見ごたえがあります。
私はエンディング曲まで含めて憑りつかれるような感覚で、考えれば考えるほどにおもしろくまた謎めいている傑作だと思いました。やっているうちに、映画館で観てもらいたい作品ですね。
今回は結構長くなりました。実際日に日に、考えるだけいろいろなものが見えたような見えなくなったような感じで楽しい作品。また見返した時が今から楽しみ。
というところで、今回は終わりますね。それでは~
コメント