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「否定と肯定」”Denial”(2016)

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映画レビュー
In this image released by Bleecker Street, Rachel Weisz portrays writer and historian Deborah E. Lipstadt in a scene from "Denial." (Laurie Sparham/Bleecker Street via AP)
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「否定と肯定」(2016)

  • 監督:ミック・ジャクソン
  • 脚本:デヴィッド・ヘアー
  • 原作:デボラ・リップシュタット 「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い」
  • 製作:ゲイリー・フォスター、ラス・クラスノフ
  • 音楽:ハワード・ショア
  • 撮影:ハリス・ザンバーラウコス
  • 編集:ジャスティン・ライト
  • 出演:レイチェル・ワイズ、トム・ウィルキンソン、ティモシー・スポール、アンドリュー・スコット、ジャック・ロウデン 他

デボラ・リップシュタットの書籍「否定と肯定 ホローコーストの真実をめぐる戦い」を映画化した作品。実際に1998年に起きた、デボラ・リップシュタッドとデイヴィッド・アーヴィングの裁判を描き、ホロコースト否定論者と戦うことになった彼女の伝記でもあります。

監督は「ボディガード」(1992)などのミック・ジャクソンが務め、主演は「ロブスター」(2015)のレイチェル・ワイズ、さらにデボラの弁護団として、トム・ウィルキンソンやアンドリュー・スコットらが出演。ホロコースト否定論者デイヴィッド・アーヴィングを演じるのは、「ターナー、光に愛を求めて」(2015)のティモシー・スポールです。

公開がたしか金曜で、次の土曜に見ました。シャンテで観ましたが、わりかし混んでいたかな。年齢層は高めでしたけども。時折、アーヴィングのあまりのアホっぷりに笑いさえ出ていました。

アメリカ人のホロコースト研究家である、デボラ・リップシュタットは、自身の公演において、ホロコースト否定論者について質問される。ホロコーストは実際には起きておらず、全ては誇張でありヒトラーの命令も無かったという論を展開する者たちの事だ。

デボラはきっぱりと、否定論者たちは歪んだ歴史事実を広めており、悪影響のあるもので、また彼らのために時間を割くのはバカバカしいと言い切った。

ところが、その会場に否定論者のデイヴィッド・アーヴィング本人が来ていたのだ。彼はデボラによって、歴史研究家としての自身の名誉を著しく貶められたとし、デボラを相手に裁判を起こす。

こういった歴史の事実に基づいた作品で、特に大きな役割というのがあると思います。

「未来を花束にして」(2015)でサラ・ガブロン監督が貫いたメッセージのように、観客に対して一つの事実をまっすぐに伝えることです。ドラマタイズがなければ映画、エンタメとして厳しくなるものの、逆に芯の通った姿勢が特徴にもなると思います。

その点で、今作は私にとってスゴくバランス良く立派な役目を果たした作品と言えました。

宣伝で繰り返されていたのは、ホロコーストが本当にあったかを問う裁判というものですが、まずもってそんなことに疑問を抱くバカはいませんよね。であるならば、そのバカを真正面から描き、そしてそういった人たちが実社会にもたらしている害悪を描いてみせたのが本作です。

ですので、どちらかと言えば、歴史の事実を問うのではなく、

「偏見や差別を持った人間が、なまじ権力と声を持ち、社会に問題を起こしている」

ということを知らしめている作品なのです。

その一貫した姿勢が、主人公ではなく弁護団によって良く示されています。

ともすれば、本来主人公であるデボラが沈黙を強要されているわけで、観ていてもどかしい気にもなりはするのですが、譲れない一線がどこに引かれている、引かれるべきなのかを今作はデボラと共に、観客がハッとするように語ります。

この裁判はデボラとアーヴィングの戦いであってはならない。ましてや、アーヴィングによってホロコーストの有無を問うものになるなど言語道断なのです。

これは、アーヴィングについての裁判。彼の論拠なき暴論、個人的な意思によって歪められた否定論、その真偽を扱う裁判。彼以外に何者も必要ないのです。

この点に関しては、ティモシー・スポールがひと欠片も好きになる部分のないアーヴィングを見事に演じていますから、おもわず感情的になりそうなところ。好き勝手に発言する彼に、デボラと同じく観客も自分の良心が叫ぶのですよ。

しかし、彼女と同じく、観客はその叫ぶ良心を抑え、他人に預けるのです。

その点が私としてはまた非常におもしろいところでした。

主人公が正しく、それを絶対に折れない心で主張する物語は数多くありますが、今作は主張をしません。デボラは絶対に譲らない強い意思を持った女性ですが、一度として彼女がエモーショナルな演説をするシーンなどは用意されていませんでした。

それは抑圧に見えながら、実は彼女の成長を描いているとも思えたのです。

世界に不信を抱き、歴史を追求するからこそ、人間の根底にあるはずの善意を信じられなくなってしまったデボラ。

この裁判ではイギリスのルールに従い、弁護団のやり方に自分の全てを任せるようになったのです。最初は頑なに拒否していたあの裁判開始の時のお辞儀も、彼女は最後はするようになるのですよ。今まで世界を信じず、自分自身で正義を主張してきた彼女が、全てを世界に委ね、正義はかならずなされると信じた瞬間には、グッとくるものがありました。

どこまでも歪んだ考えと、差別を認識すらできていないアーヴィング。

しかし、こうして自己認識の無い人間があまりに多いことも苦い事実です。リベラルを主張し、差別はないという人こそ知らずに差別をしているものですね。この作品のアーヴィングを見ることで、ある意味戒めにもなりました。

また、個人的感情に任せて、丁寧に調べることや事実を認めることを放棄して、声だけ荒げるという人は、どこにでも見かけるものです。だからこそ、「専門家ではないのなら口を閉じてろ!」とアーヴィングを一蹴するシーンには爽快感が溢れていました。

歴史の研究とか、真実とかを扱う作品ではなかったと思います。

より普遍的に、無意識に歪んだ思考をばらまく人間がいて、えてしてそういった人間はなんの根拠も、努力も、問題に対する誠意も持たずにただ騒いでいる。相手にするだけ無駄なのですよね。

芯から腐った男に「ざまあw」と言える映画であり、そしてデボラに託された被害者の声が、さらに弁護団に託されて、見事な手法で世界に伝わる作品であり。アーヴィングみたいな人間ばかりじゃなくて、世の中自分の良心をゆだねるだけの真っ当な人がいるものだと、少し世界に安心を得た作品でした。

そんなところで今回は終わります。それでは~

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