「エマニュエル」(2024)
作品解説
- 監督:オードレイ・ディヴァン
- 製作:レジナルド・ドゥ・ギユボン、マリオン・ドゥロール、エドアール・ウェイル、ブラヒム・シウア、バンサン・マラバル、フィクトル・ファン・デル・スターイ、ロランス・クレル
- 製作総指揮:タチアナ・ブシャン
- 原作:エマニエル・アルサン
- 脚本:オードレイ・ディヴァン、レベッカ・ズロトブスキ
- 撮影:ロラン・タニー
- 美術:カティア・ビシュコフ
- 衣装:ユルゲン・ドーリング
- 編集:ポリーヌ・ガイヤール
- 音楽:エフゲニー・ガルペリン、サーシャ・ガルペリン
- 出演:ノエミ・メルラン、ナオミ・ワッツ、ウィル・シャープ、
1974年に映画化され、日本で大ヒットを記録したエマニエル・アルサン原作の官能小説『エマニエル夫人』が、新たに現代を舞台に再映画化。監督を務めるのは「あのこと」でヴェネチア国際映画祭金獅子賞に輝いたフランスのオードレイ・ディヴァン。
主演は「燃ゆる女の肖像」や「恋する遊園地」ノエミ・メルラン。共演には、「ルース・エドガー」なのナオミ・ワッツ、俳優としてだけでなく「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」などで監督としても活躍するウィル・シャープなど。
昨年の東京国際映画祭でも上映されていて、実はその際のプレミアでも鑑賞済です。
もう一度見るかは迷ったのですが、ちょうど時間も空いた時に鑑賞してきました。公開週末ではあるものの、そこまでの人は入っていませんでした。
~あらすじ~
感想レビュー/考察
女性陣によって作り出された新たなエマニュエル
1974年の「エマニュエル夫人」。ジュスト・ジャカン監督、シルビア・クリステル主演のその作品は、ソフトコアなエロティック映画としてとても有名。
子どもの頃に見たような、いや、もしかすると観なかったような。今作はリメイクではありますが、オリジナルとの比較の面ではあまりできません。
しかし、作品の制作陣を観てみるとおもしろい点があります。
男性監督が監督し、そして映画用脚本も男性のジャン=ルイ・リシャールが作成したというオリジナル。
それに対して、リメイクの構成をみると、監督は女性、そして脚本もオードレイ監督とレベッカ・ズロトヴスキと女性が努めています。
ここに、現代的なアップデートや今回のリメイクの必要性が見えてきます。
エマニュエルを女性の視点で女性の映画として構築し再定義することはまさに現代に求められることであり、そのために女性によって作られていくアプローチは必然です。
男性が期待、定義するエロスはない
そしてそこに、今作の評価がかなり割れている要因があると思います。
ほとんどの場合、今作の批判的な意見や批評には”性的な要素の少なさ。エロスの欠如。”が挙げられているように見えます。
では、その性的要素やエロスとは?ここが議論の的になるのかと思いました。
オリジナルは先ほど挙げたように、男性視点から描き出された”性を解放した女性像”であったと思われます。であるならば、性的さもエロスも男性基準。
女性によって描かれたものとの齟齬がでてもおかしくありません。
男性が期待する官能とエロスは、ここにはないということです。
ありふれたセックスの世界で、性を模索する
実際のところ、ディヴァン監督は「あのこと」の次の作品として、今作の話が来たときには迷っていたそうです。そしてオリジナル映画はしっかりと見ておらず、むしろ原作について素晴らしいと感じていたとか。
現代において、エロスは見える見えないの話を越えている気もします。オリジナルの映画では見えることがエロスであったようですが、今の時代ネットでもSNSでも裸体なんてものはいくらでも、セックスもいくらでも観れます。
だとすれば、過去と同じような表現で性を描く意味はないのだと思います。
隙が無く見え、独立した現代的女性
その上で今作のエマニュエルを観てみましょう。
高級ホテルチェーンの本日管理部門で働く彼女は、独立しているキャリアウーマンです。
お堅い仕事がらもありつつ、ノエミ・メルランのキリッとした眼差しに、スーツ姿やフォーマルなドレスなどの衣装から、大人の色気がありながらもセクシーな路線ではない。
彼女はこのホテルのように、表層上すべてを完璧に整えた存在。一部の狂いもなく、まるでホテルのベッドや小物のように、少し乱れても必ず元通りに整頓され戻すような。
この未婚で、経済的に男性に依存していない完成された女性の姿が、まさに現代としてのアップデート。
一見すると性的な対象としての男性を必要としなさそうなエマニュエルが、それでも自身の欲望と向き合っていくところが焦点です。
彼女は様相はホテルのようで、一見隙がない。しかし、序盤の飛行機でのシーンで分かるように、快楽を得られない。
探求を続けてホテルの宿泊客と3Pしても、カメラがクローズアップしてとらえるエマニュエルは茫然としています。
混沌が吹きすさび、その不安に興奮がある
しかし、そんな彼女に対して完璧を乱し、新しい風を吹き付けてくるのがケイ。ミステリアスで多くを語らないものの鋭い問答を繰り返す彼に、エマニュエルは惹かれていく。
明確になぜ彼に惹かれるのか、すこし曖昧な気もしますが、混沌を象徴するからだと考えました。
ホテルにも嵐が到来し、一時的に混沌が訪れる。
それも品質の管理としてすぐさま元に戻されていきますが、カオスが収まるのと同時にケイも夜の街に消えていきます。
エマニュエルはそれを追いかけようとしますが、「残ってほしい」としか言えない。大きなホテルという殻にこもったままです。
ホテルについては、ジェントリフィケーションや異国における搾取構造も見えました。これらが何か大きな背景を、メッセージを今作に与えているのかは議論すべき点と思いますが。
ホテルのラグジュアリーさと客層に対して、働く人々は皆現地の方で、外国人観光客向けホテルなのでしょう。
そしてマーゴットが許しはしないけど見逃している売春行為。性ビジネスを違法に行う隠れ蓑のようになっています。
エマニュエルとマーゴットの描写。
二人は旧知の仲に見え、プロとして互いを尊重している。二人には外しが狙いとして置かれたのかと思います。
女性同士の戦いになるかと思えば、別にそうでもない。何となく期待されるような”女の争い”みたいなものを外すこと?しかし正直2人に込められた主題はあまり見えにくかったです。
所感の面で訴える性的要素
薄いと言われる性的な要素については、実は事実だけ列挙すれば結構入っている。
公的機関での成り行きのセックス。3P。オナニーの見せ合いも、1人でのシーンもある。最終幕でもまたセックスシーンがあり、しかも擬似的な3Pになっていました。
ただ、批評で言われるようにエロスは控えめなのかもしれません。それはエマニュエルの心の状態が原因だと思います。言ってしまえばエロくない感じにしているのかと。
ホテルの手すりをタオルでなでること、恥部に触れること。シンクロするのは触覚的な部分。そこにエロスはありますが、まだ整理整頓された、本能的な荒さのない表現。
それが終幕にはカオスの象徴のような、雑踏の中へ。スリルと不安が快感にもなる賭博場と裏路地、地元のクラブ。
欲求の先にいる男性、ケイ
ケイは男性の不能のような存在として描かれますが、男性が性欲マックス一辺倒でもないのは現代でもよく言われますね。フランスではどうかわからないですし、日本人の設定もありますが。よく草食系や絶食系といった言葉も聞きます。
ただ、ケイは自分でも欲望が枯渇したと言います。
ホテルの客には欲望が枯渇しない客もいると言っていますね。どこまで尽くしても十分ではなく、さらに要求してくると。
OPと対比されたラストのセックスシーン
欲望や限界は人それぞれですが、自分にとっての足るを知るに到達したのがケイなのかもと思います。だから最後まで彼自身はエマニュエルとセックスをしない。
そこでクライマックス。ケイに通訳をしてもらいながらエマニュエルは地元の男性とセックスをします。ここはOPと完全に対比になっている。
無言でセックスしていたエマニュエル。クライマックスは自分の口から自分の欲求を言います。こうしてほしいと。
そしてOPでは相手の顔も観ずに後ろからでしたが、クライマックスのシーンでは向かい合っている。
快感もなくエクスタシーのなかったエマニュエルが、最後に自分の中でエクスタシーを見つけ、解放されるラストの構成は秀逸だと思いました。
「あのこと」でもある意味で女性の性を描いたディヴァン監督。今作は解放と探求を主軸にしていますが、女性が選択していき自分にとっての理想を得ていくのは、共通しているのかもしれません。
意見が割れていて、批判的な感想が多い理由も分かりますが、ディヴァン監督は一貫した描き方でエマニュエルを小説から再び現代のスクリーンに投影したと思います。
ちょっとエッチで恥ずかしいものを見に行こう、そんな向き合い方だとハズレですが、私個人としては楽しめた作品でした。
今回の感想はここまで。ではまた。
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