「墓泥棒と失われた女神」(2023)
作品解説
- 監督:アリーチェ・ロルバケル
- 製作:カルロ・クレスト=ディナ、パオロ・デル・ブロッコ、アレクサンドラ・エノクシベール、グレゴリー・ガヨス
- 製作総指揮:イーライ・ブッシュ、ジェフ・ドイッチマン、アレッシオ・ラッツァレスキ、トム・クイン、ミヒャエル・ベバー
- 脚本:アリーチェ・ロルバケル
- 撮影:エレーヌ・ルバール
- 美術:エミータ・フリガート
- 衣装:ロレダーナ・ブシェーミ
- 編集:ネリー・ケティエ
- 出演:ジョシュ・オコナー、キャロル・ドゥアルテ、アルバ・ロルヴァケル、イザベラ・ロッセリーニ 他
「幸福なラザロ」や「夏をゆく人々」で高い評価を受けたイタリアのアリーチェ・ロルバケルが監督・脚本を務め、愛の幻想に囚われた墓泥棒の数奇な運命を描くドラマ。
主演のアーサー役を「ゴッズ・オウン・カントリー」のジョシュ・オコナーが演じ、共演には「ブルーベルベット」のイザベラ・ロッセリーニや「ロスト・ドーター」のアルバ・ロルヴァケルが名を連ねています。
また主人公が出会う女性役に「見えざる人生」のキャロル・ドゥアルテが出演しています。
本作は2023年の第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品されました。批評面ではかなり高い評価を得ていて、公開を楽しみにしていた作品。
しかしあれこれとしていると時間が過ぎてしまい、公開は今週で終わりというところで滑り込みで観に行ってきました。さすがにもう公開から日にちが経っていたのですが、お盆休みかつその映画館のサービスデイだったからか結構混んでいました。
~あらすじ~
1980年代、イタリアのトスカーナ地方にある田舎町。考古学愛好家である青年アーサーは、忘れられない恋人の面影を追い続けていた。
彼には、紀元前に栄えた古代エトルリア人の遺跡を見つけ出すという不思議な力があり、その能力を使って墓泥棒の仲間たちと共に埋葬品を掘り起こし、売りさばいて日銭を稼いでいた。
ある日、彼らは希少価値のある美しい女神像を発見するが、その発見はやがて闇のアート市場を巻き込んだ大きな騒動へと発展していくことになる。
感想レビュー/考察
アリーチェ・ロルバケル監督の前の作品である「幸福なラザロ」がすごく好きな作品で、それは決して素直なストーリーではなくて、複雑というわけでもなく、しかし迷ってつかみ取れない不思議な作品でした。
資本主義とそこで翻弄されていく無垢な魂に、超自然的な力の登場と、現在と過去、生と死の境界線の曖昧な感覚。
それらはすべてこの作品でも監督のDNAとして受け継がれています。なので「幸福なラザロ」が好きだったという方には絶対にハマると思います。逆にあちらが意味わかんなくて好きじゃない方は、今作も「どういうことなの?」という感覚で好きになれないかもしれません。
最愛の人の幻想を追いかける
物語の始まりに、夢うつつから幕が開けます。そこには美しい笑顔を振りまく女性が。これは主人公アーサーが愛した女性べニアミーナ。
この物語は全編にわたって、今は亡きべニアミーナを求めて、アーサーがさまよっている映画でもあります。
その点では「オルフェ」を思い起こします。最愛の人に会いたくて旅をする、しかもそれは現世と死者(今作では過去を象徴する遺物たち)が絡んでいますし、幻想的なイメージなどからも彷彿とされます。
原題は”La Chimera”。キメラというとあのギリシャ神話の怪物を彷彿としますが、意味は「幻想」や「叶わぬ夢」になります。
もちろん墓泥棒の映画ですけど、今回には失った愛を求める男の物語があるのです。
異なるカメラで表現される、交錯する現実と夢の世界
時折挿入されているべニアミーナの想い出のような映像。それこそが常にアーサーが追い求めている幻想ということです。今作は主に3つの区分に、すべての映像が切り分けられています。
現実世界での日常的な場面についてはSuper16mm(アス比1.66:1)で撮影されています。
しかし何かしらの古代エトルリアの遺跡とか副葬品にかかわる部分は35mm(アス比1.85:1)、そしてべニアミーナとの想い出やその他の記憶のシーンは16mm(アス比1.33:1)で。
このように画面のサイズ、比率によってそれぞれのテイストが決められ区別されるようになっているのですね。
さらに、ライティングもとても美しかった。
自然光がなんと綺麗なんだろうという、OPなどで特徴的な日の光。
さらに夜のシーンに関しても煌々と街灯が照らすこともないような郊外や海辺の夜であるので、服装が自然と光源に感じられたり、絶妙。
墓の中に入っていくシーンでは懐中電灯と蝋燭しか持っていないのですが、俳優たちの顔が見やすいことや、また背景が完全な真っ黒にはならずにうっすらとスクリーンでは確認できるなどの照明の工夫が感じられました。
撮影監督であるエレーヌ・ルバールのkodakでのインタビューでは撮影機材やライティングなどの様々なことが語られていますので、参考にどうぞ。
映画表現も過去の掘り返しを
アーサーの心を映し出していく衣装
衣装面でも特徴的ですね。
アーサーが初登場時からきているクリーム色のリネンのツーピース。どことなくアーサーが発見する女神像のその石のような自然の色合いを持つこのスーツ。
これ自体が彼を周囲から浮き立たせる要素にもなります。なんども”イギリス人”と言われるように、彼は異国の存在であり浮いている。服装に関しても彼だけが白く目立つことになるのです。
そしてこの色合いには彼のピュアなハートも投影されています。
他の墓泥棒たちは完全に金目当て。芸術的な価値などは興味もない。でもアーサーは女神像の頭部を海に投げ捨ててしまうように、資本主義的な波に過去の魂を弄ばせたくない。
そんな彼の純真さがこの理念のスーツに込められているようでした。
劇中このスーツが徐々に汚れていくというのも、彼の心までもが疲れ廃れていくようですね。
纏っているジョシュ・オコナーの素晴らしい演技。彼は「帰らない日曜日」など何にでても良いですよね。今作でもどこか寂しげな、周囲に求められつついつも居場所のないようなアーサーを見事に演じています。
女性たちのそれぞれの衣装やカラーにも注目
その他、女性たちの服装というかカラーは結構ヴィヴィッドであったり、夢に追いかけるべニアミーナはヒッピー的な印象でとてもアースで自然的、逆にべニアミーナの姉たちはもっとパステル。
序盤で靴下を撃っている男からもらうターコイズの色が、喪に服すように暗い色合いばかりであったフローラの足元に彩を加えているのも良かったです。
衣装面でもかなり楽しい作品になっています。
資本主義社会に飲まれそうな過去の魂
資本主義に飲まれているアート市場。墓を暴く集団は死者の魂を荒す。
この点は小作人から解放しても、資本主義社会ではより酷い境遇に陥ってしまった人々を描いた「幸福なラザロ」にも通じています。
こんなお金ばかりが先行するアート会で、アーサーは墓を、地下を、土を掘ることでべニアミーナを追いかけ続けている。
だからこそ、見つかっていく副葬品に関しては罪の意識を感じているのです。女神像を壊した行為にもものすごく怒っていて、それは決して売り物を壊したからではなく、美しいものを壊したから、敬意を欠いているからです。
終盤に盗まれた自身の副葬品を探す人物たちが(OPの列車に乗っていたほかの乗客や車掌)亡霊のように出てくるのは、アーサーの罪悪感が生んだ幻影だと思われます。
また彼にとっては埋葬されているものはべニアミーナの分身のような気持ちもあるでしょう。触れることで過去と今を繋いでくれる。だからその瞬間、今はない愛する人と繋がるような気持ち。
女性たちが作るユートピア
時間が経って孤独になったアーサーは再びイタリアと再会しました。そこで女性たちの世界が築かれています。
途中のシーンでメロディーが、古代エトルリアは女性が主権を持っていたと言います。
あのシーンだけ急にカメラ目線で観客に対して話しかけるドッキリになっていますが、のちに出てくるあの女性たちだけで作られた古びた駅舎は、古代エトルリアの再現なのかもしれません。
そこでイタリアと結ばれそうになるアーサーですが、しかしそれでもべニアミーナへの思いは消えません。キスを止め、彼はイタリアを残してどこかへ行ってしまう。
ふとした瞬間にすべてを超越して人と心を繋ぐ映画の魔法
またもべニアミーナを探して墓堀をするところで地面が崩れてしまい埋もれるアーサー。出口のない暗闇の中で赤い糸を見つける。やっとべニアミーナを抱きしめた。
ラストのあの生も死も、現在と過去も超えた、映画の魔法が詰まったような瞬間。本当に美しいものでした。この感覚、気持ち、瞬間があまりにも格別すぎる。
映画が連れて行ってくれるのは、この感覚の境地。一瞬ですべてを越えて、触れられるはずのない二人を結び付けてしまう力があるのです。
自分自身、この作品をすべてうまく掴めたかといえば難しい。何が起きている?と思うこともある。それでも、分からないこの気持ちがそれでいいと思える。
夢幻は心に響くことが大事。そんな素敵な作品でした。
今回の感想はここまで。ではまた。
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