「読まれなかった小説」(2018)
- 監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
- 脚本:アキン・アクス エブル・ジェイラン、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
- 製作:ゼイネプ・オズバトゥール・アタカン
- 音楽:ミルザ・タヒロビッチ
- 撮影:ゲクハン・ティリヤキ
- 美術:メラル・アクタン
- 衣装:エムレ・オルメズ
- 編集:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
- 出演:アイドゥン・ドウ・デミルコル、ムラト・ジェムジル、ベンヌ・ユルドゥルムラー 他
2018年のカンヌ国際映画祭コンペに出品のトルコ映画。
処女作を出版しようとする青年と彼の故郷そして両親との関係を描くドラマになります。
監督は「雪の轍」でパルムドール受賞経験のあるヌリ・ビルゲ・ジェイラン。
アカデミー賞でもトルコ代表になりエントリーしましたが、外国語映画賞部門でのノミネートには至りませんでした。
上映時間は3時間ということでしたが、評判がいい作品であることと、トルコの映画ってあまり観ていないと思うので鑑賞。
日比谷で観ましたけど、休日だった割りにはそこまで混んではいませんでした。
作家志望の青年シナンは大学を卒業し、トロイ遺跡近くの故郷チャイに戻ってきた。
彼は自身の処女作を出版しようと試行錯誤しているのだが、賭け事が好きな父は特に真剣にも取り合わず、祖父の家の井戸堀や動物の世話の手伝いを頼んでくる。
シナンは嫁いでいく同級生に会い、「ここで腐りたくない」と言う。
またあるときは有名作家に出会い、失礼な態度で議論をふっ掛けてしまう。
上手くいかない状況で、シナンは諦めず町長や地元の店のオーナーに、自分の小説出版の出資を頼んで回るのだった。
上映時間3時間という長さで、そこまで抑揚や派手なシーンもない、ある意味地味なドラマ映画。
ただ描かれていることを見ると、よく3時間でまとめたなと思わず感服するような、重厚な物語でした。
言ってしまえば世界とか人間とか人生を、たった3時間で描いているわけです。
この作品は青年シナンを追いますが、彼を通して様々な議論を展開します。
決して答えのでない議論。
ある意味言い合いをするシーンが多いので、台詞をしっかり追ったり、自分の中で咀嚼した上で思考することも多く、疲れるかもしれません。
伝統や宗教、女性の権利、若さと未熟さ、ここではない何処かへの羨望、家族そして親子の確執と不器用な愛情。
登場人物の造形が見事で、どの人物にも明確な役割がありません。
いい人悪い人もなければ、邪魔ものとかおかしな人も。
何より正しい人と間違っている人もいないんです。
本当にトルコのこの町に生まれ育ち血の流れる人間がそこにいて、違和感のなさが凄い。
例えば悪役になりがちな父ですら、そのどうしようもないギャンブル癖を展開する前に、娘とのイタズラ用ガムの下りを入れることで、消して根っからのダメな人ではないことを示しますし。
主人公シナンすら、善人だとか物語の導き手、中心として正しいとは言えません。正直作家に食い下がるシーンとか失礼ですし。
ただ、その不完全な人間性は、痛いほどに分かります。
自分のせいでもあるけれど、どうにも環境や境遇のせいにしたくなってしまったり、どこかに想いをぶつけたい。
母に対する感謝の文字が涙を誘う直後、これまた微妙に険悪な雰囲気になったり、流動的ではありますが、映画の中の生ではなくて、現実の生を剥き出される感じがします。
全編通しての美しい風景、偉大なものに囲まれるシナン。
ショットの一つ一つが重厚な文学作品を読む際に、ふと胸の内に想像し広がるそれを描写するようです。
映像美の中で、何者かになろうとし、そして自らの生に意味と価値を得ようともがく。
ただ人生のままならないこと。
結局は制度に飲まれ、そして出版された本も読まれない。誰かに届くことの無い閉塞感と薄々感じる自分の世界での価値は、挿入されるゾッとするような死の香りの濃いカットで鮮烈に脳裏に刻まれる。
ただ、そんな読まれない、見向きもされない生というものは価値がないわけではない。いや、価値がある必要は無いのかもしれません。
交わることのない関係と思われた父子のそれぞれの想い。父はシナンの生をしっかりと読み、何なら繰り返し噛みしめていたわけです。
あの新聞記事を見つけるシーン。あまりに深くでも不器用な人の愛に胸打たれます。
とてもスローな作品で、何も起きないという方も多いかもしれませんが、自分にとっては世界と人間を凝縮した作品でした。
非常に濃厚でありますが、静かな作品ではありますから眠い時や疲れている時ではなく万全の体調の際に劇場でどうぞ。
今回はこのくらいでおしまいです。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます。
それではまた別の映画の感想で。
コメント