「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」(2017)

  • 監督:ヨルゴス・ランティモス
  • 脚本:ヨルゴス・ランティモス、エフティミス・フィリップ
  • 製作:エド・ギニー、ヨルゴス・ランティモス、アンドリュー・ロウ
  • 製作総指揮:ダニエル・バトセック、デヴィッド・コス、サム・ラベンダー、アミット・パンディア、アン・シーアン、ガブリエル・スチュワート、ピーター・ワトソン
  • 撮影:ティミオス・バカタキス
  • 編集:ヨルゴス・モヴロプサリディス
  • 出演:コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン、ラフィー・キャシディ・サニー・サジック、アリシア・シルヴァーストーン 他

「ロブスター」(2015)の監督、ヨルゴス・ランティモスが再びコリン・ファレルと組んで送るスリラー映画。ニコール・キッドマンや「ダンケルク」(2017)での印象も強いバリー・コーガンも出演。

今作はカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを争い、脚本賞を受賞。

以前からランティモス監督新作ということ、また賛否は分かれてもランティモス監督らしい作品だという噂もあり期待していた作品です。公開日には観に行けず、次の週金曜に鑑賞。夜の回でも結構混雑しておりました。「ロブスター」の時以上に、終わった後の観客のどうしたらいいか分からない感じがおもしろかったw

優秀な外科医であるスティーブンは、クリニックを経営している妻、かわいい娘と息子と共に何不自由なく暮らしていた。

彼はマーティンという少年と密かに会っており、彼になにか罪悪感のようなものを抱いて、何かと世話をしていた。彼に高級時計を買い、家にも招いて家族に紹介する。

しかし、マーティンはスティーブンとの約束以外でも彼の前に現れたり、家族へ近づいたりしはじめるのだった。

そしてスティーブンの息子に異変が起き、彼は究極の選択を迫られることになる。

「ロブスター」(2015)を観たときにも思ったのですが、やはり監督はアタマがおかしい(誉め言葉)。

ランティモス監督は本当に奇妙な映画を作る人だと思います。そしてその世界が飽きさせずおもしろい。

今作も全編通して何かジャンルに簡単には落とし込めないものになっていたと思います。

作品として歪んでいるというのをすごく感じまして、それが観客を落ち着かせず常に不穏な空気を生んでいました。

撮影が本当に良かったです。ティミオス・バカタキスという方が撮っているのですが、画の作りから、カメラの動きから奇妙でして。

最初すぐの、廊下を歩く主人公と同僚を映すところから、居心地の悪い距離感と長々と続く直線的な廊下で既に不安がいっぱいw

カメラが動く時、適切な距離?みたいなのを外しているように思えます。ちょうどいい距離で人を映さずに、やたら近かったり見ずらいくらいに若干遠かったり。ズームするときも、その画の中の人ではなく変なところにじっくりズームしていくなど、気味が悪いw

それと、私が一番印象に残っているのが閉塞感。

特に上からの圧力です。

上の画像は、まあ10代の女の子と男の子が、天気のいい日に散歩している、デートの一枚・・・のはずが、なんじゃこの木は!空を覆う木、そのせいでなんか画面が狭いし、しかも人より上の部分が多く画面に入っているので余計に埋め尽くされている感覚です。

これは建物内とかでもすごく多くて、とにかく天井をすごくよく映すんですよ。それで上への抜けとかが一切なく、いつも狭苦しい印象があります。常に上から押さえつけられているような。

実際、その上からの、いわゆる神の視点なる俯瞰ショットがありますね。神様なのかなんなのかは分かりませんが、この作品はある意味神話的です。

神話と言っても神々の戦い的なものではなく、まあおとぎ話と言うか昔話と言うか。

実際この作品の根底にはギリシア神話のアウリスのイピゲネイアがあるらしいですね。あれも神と言うより神に翻弄された人間の話ですし。

現代を舞台にした話なのに、宗教じみたものも感じるのは、少年マーティンを演じたバリー・コーガンのおかげでしょう。まったく素晴らしい演技で、人間の皮を被った何かを演じています。

悪役ってわけではないですが、何とも置き場に困るキャラクター、マーティン。

彼には本来は映画に置いて入れると人間的になるはずの食事シーンが多く用意されているのですが、全く人間味を感じない。というか、何かを食べている姿すら、人間でない物が人間のふりをして見せつけているような、違和感と怖さがありました。

彼は言い放ちます。

「最初は足が悪くなり、そのうちものを食べれなくなる。そして眼から血を流して、数時間後に死ぬ。」

突然、さもあたりまえのことのように口走る、この決まり事。まえの「ロブスター」でもそうなんですが、ランティモス監督の作品は、理不尽かつ一方的に決められるルールがありますね。そしてそれに従うか決めることもできず、ただ受け入れてそこで悶える人間。

マーティンからは、「ノーカントリー」(2007)のアントン・シガーのような、概念が歩き回り、来たら受け入れるしかないような恐ろしさを感じました。

そんな運命の訪れに、生き残るために必死になる家族。その必死さは、家族の生き残りのため戦うのではなく、自己愛に満ちていました。残酷すぎるうえに痛々しく、醜くそして滑稽。

ただ王である父に自分を選んでもらうため、

母は「子はまた産める。そのためにも私が必要。」ときっぱり言い放ち、

娘は「私が犠牲になる。愛してる。」と言いますね。後者は言葉は立派でも、良心をかきたて自分を選べないようにしているようで余計に醜悪に感じます。

グルグルバットのシーンはもはや滑稽すぎてコメディでしたが、なんとも人の無力なことか。

マーティンは公平について、得れば得て、奪えば奪われることを話しますが、その均衡って理不尽なものです。

だんだんと見えてくるのは、裕福な夫婦にかわいい娘と息子という理想的ともいえる家族の闇。

覗けば覗くほどに醜く汚い。

不穏な音楽に、圧迫されるような居心地の悪い撮影、怪物マーティンとムシケラ人間たち。

究極の犠牲を迫られたときの人間の残酷な本性を見せつける本作は、ランティモス監督の奇妙さと独特な視点を存分に楽しめる作品でした。何度も観たいかと言うとごめんですが、やはりこの監督の描くものっておもしろいと思います。

作家性の証明であり、今後もランティモス監督の新作とあれば期待するような作品でした。

感想はこのくらいで終わりです。ヘンテコでいや~な映画なので是非見てみてください。

それでは、また。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です