「フェラーリ」(2023)
作品解説
- 監督:マイケル・マン
- 製作:マイケル・マン、P・J・ファン・サンドバイク、マリー・サバレ、ジョン・レッシャー、トーマス・ヘイスリップ、ジョン・フリードバーグ、アンドレア・イェルボリーノ、モニカ・バカルディ、ギャレス・ウェスト、ラース・シルベスト、トーステン・シューマッハー、ローラ・リスター
- 製作総指揮:ミキ・エメリッヒ、ロバン・ル・シャニュ、ロバート・シモンズ、ジャム・ナジャフィ、ノア・フォーゲルソン、アダム・フォーゲルソン、サミュエル・J・ブラウン、トーマス・マクレオド、アダム・ドライバー、パメラ・イェーツ、バハン・イェプレマイアン、アルトゥール・ガルスティアン
- 原作:ブロック・イェーツ
- 脚本:トロイ・ケネディ・マーティン
- 撮影:エリック・メッサーシュミット
- 編集:ピエトロ・スカリア
- 音楽:ダニエル・ペンバートン
- 出演:アダム・ドライバー、ペネロペ・クルス、シェイリーン・ウッドリー、ガブリエル・レオン、サラ・ガドン、パトリック・デンプシー 他
「ヒート」や「コラテラル」などのマイケル・マン監督が、イタリアの自動車メーカー・フェラーリの創業者エンツォ・フェラーリを描いたドラマ。
ブロック・イェーツの著書「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」を原作に、私生活と会社経営で窮地に陥った59歳のエンツォが、起死回生をかけて挑んだレースの真相を描く。
エンツォを「スターウォーズ」シリーズや「パターソン」などのアダム・ドライバーが演じ、その妻ラウラを「」ペネロペ・クルスが、愛人リナをシェイリーン・ウッドリーがそれぞれ演じています。
今作は2023年の第80回ベネチア国際映画祭コンペティション部門に出品されました。
フェラーリのオーナーであるエンツォについては全然知らないのですが、実はトランスフォーマーからディーノだけ知っていました。「トランスフォーマー ダークサイドムーン」に出てくるフェラーリに変形するトランスフォーマーがディーノという名前で、エンツォの亡くなった息子から名前を取ったとされていましたので。
まあほとんど何も知らない状態で、マン監督の新作ですし(「ブラックハット」から8年!)、アダム・ドライバーなど俳優陣も良いので公開週末に都内で観てきました。思ってたよりも混んでなかったですね。
~あらすじ~
1957年、有名なスポーツカー、フェラーリの社長であるエンツォ・フェラーリは難病の息子ディーノを前年に亡くし、共同経営者である妻ラウラとの関係も冷え切っていた。
彼は愛人リナとその息子ピエロとの二重生活を送っていたが、そのことが妻に露見。さらに会社は業績不振で破産寸前まで追い込まれており、競合他社からの買収の危機に直面する。
エンツォは再起を誓い、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷なロードレース「ミッレミリア」での優勝を最後の頼みとして新たなレースドライバーを迎えて準備に取り掛かる。
感想レビュー/考察
描かれるのは喪失の中でもがく男のドラマ
誰もが知っているあのスポーツカー、フェラーリ。イタリアの宝石とされるこのフェラーリのミッレミリアレースに向けての熱き戦いの物語。ではないのが今作。
予告編などからもしかすると、「フォードVSフェラーリ」のフェラーリ側のような話なんじゃないかとか、車に夢を託した男の話とか思われるかもしれません。実際に私も鑑賞するまではそのあたりのドラマ作品なのかなと思っていました。
しかし、それは違いました。この作品が扱っているのは喪失の悲しみとそれを乗り越えようともがき苦しむ男、また彼の妻の話でした。
ですので、今作はダウナーな感じで重苦しく、切なさを纏っていて悲しげなのです。
このあたりをマン監督はまるで二つの映画を撮るかのように技術的にも分けています。家族ドラマのシーンは色彩にヴィヴィッドさがなく暗くモノクロ的な印象も受ける。
しかしレースになるとワイドスクリーンの横の幅も活かされ始めて、赤の車体他が鮮烈な印象を出し始めます。
歪んでしまっている家族
作品が始まってすぐ、エンツォが地元の花屋に立ち寄りまた身なりを床屋で整えてどこかへ行く。それは息子ディーノのお墓なのです。
ここで描き方として良いなと思うのは、そもそもエンツォが起床するのが、愛人であるリナのベッドの中っていうところから”おかしさ”を感じるようになっています。
愛する息子のお墓参りなのに、妻ラウラはエンツォの両親と車でお墓に行き、入れ違いになっているエンツォは挨拶もしないで走り去る。
すれ違っているというよりも、子どもを亡くした結果として夫婦間は結束ではなくて崩壊をしていることが、重要な人物の紹介とともに見事にまとめられていたOPであったと思います。
フェラーリの名をめぐる夫婦ドラマ
もちろんクライマックスには大きなミッレミリアのレースがアクションとしての盛り上がりを見せてくれますが、実際には夫婦ドラマ映画なんだと思います。
そこで中心にあるのは無くなったディーノと、エンツォの不倫相手であるリナとの間にいる認知されていない息子ピエロをめぐる議論。それはピエロをピエロ・フェラーリとして認知するのかということ。
だからタイトルはフェラーリなのかもしれません。車のことではなくて家名の方で。
ピエロを認めてほしい。それはリナの想いです。ピエロはイタリアにおいて守られない存在になってしまう。だからこそエンツォに正式にフェラーリの名を認められれば、世間のバッシングなどから保護できる。
しかし複雑なのは、ディーノの存在なんですね。
エンツォもそうでしょうけれど、特にラウラにとっては昨年最愛の息子を亡くしたばかりなのに、すぐに浮気相手の子どもをフェラーリの息子として認めるなんて、あまりに酷なのです。そして許せることではない。
ペネロペ・クルスの悲しみを怒りで処理する様が見事
今作、この妻ラウラを演じたペネロペ・クルス目当てで観ても良いです。
彼女がほんとに素晴らしい、すごい。なんというか華奢であったり可憐さであったり、優しさと美しさなイメージのある俳優ですが、ここではマジで怖いんです。
夫婦間が冷え切っている点の強調のようにですが、初めに彼女が銃でエンツォを狙う。すぐ右側に思いっきり打ち込むというヤバさ。
怒りに囚われて悲しみを覆い隠す様子は「スリー・ビルボード」の主人公ミルドレッドのようなすさまじさがありますし、ラウラがディーノの前で涙するシーンなどでは母親を見せていて本当に素敵でした。
たったの4か月間に集中して最も危機的な状況を見せる
マイケル・マン監督はこのエンツォ・フェラーリという男を描く伝記映画として、彼の人生の長い期間を追いかけない。選んだのは1957年の4か月間だけ。なかなか集中した切り取り方で、エンツォという男を描きます。
この点、エンツォが一番試された時期であり試練であったからかなと思います。その試練において彼は自分自身のやるべきことやりたいこと、社会的な責務と自分の欲求とを常に整理しながら葛藤した。
機能が良いものは美しい。自ら車のデザインを行い、死と隣り合わせのレースにおいて妥協せず美しさを追求する。一方でフェラーリ社の命運をかけて、レースには絶対に勝たねばならない。
しかも結果としてレースではフェラーリ側は事故を起こしてしまい、9人の観客が死亡してしまう。その責任についても問われることになるなど、本当に社会的な部分での危機だったのです。
事故のシーンはすさまじいビジュアルで無音の演出踏まえてあまりにも印象的です。
そして家庭での危機。息子の死から夫婦間の亀裂、迫られる不倫相手との間の子の認知。
帝王の目線、ブレない魂
そこでエンツォがみえてくる。彼という男が見えるのです。
彼は常に自分がどのような立場に置かれているか自分で分かっている。父として夫として、社長としてそして車を愛する技術者として。すべてを俯瞰し理解し、葛藤しながらも迷いなく突き進む。
車をデザインする、美しく。妻との関係を保ちつつ、会社に必要な資金を得る。ピエロを見捨てはしないが、ディーノも失わない。レースには勝つ。
彼は経営者や責任者として厳格でありつつも、亡くなったドライバーの恋人や遺族への支援を気に掛けるなど、私生活の波や社会的な批判の中でも素晴らしい対応をしていく。
このエンツォを、マン監督は突き進む魂をもつ”おもしろい男”だと感じ、ここまでの熱量で映画にしたのだと理解できました。
マン監督自身が明確なビジョンと強い意志を持ち、こだわる男ですから、何か魂に共鳴したのかもしれないですね。骨太な作品でした。
このあたりのことは監督本人のインタビューでも詳しく読めますので読んでみてください。
今回の感想はここまでです。ではまた。
コメント