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「ロニートとエスティ 彼女たちの選択」”Disobedience”‘(2017)

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映画レビュー
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「ロニートとエスティ 彼女たちの選択」(2017)

作品解説

  • 監督:セバスティアン・レリオ
  • 脚本:セバスティアン・レリオ、レベッカ・レンキェヴィチ
  • 原作:ナオミ・アルダーマン ”Disobedience”
  • 製作:エド・ギニー、フリーダ・トレスブランコ、レイチェル・ワイズ
  • 音楽:マシュー・ハーバート
  • 撮影:ダニー・コーエン
  • 編集:ネイサン・ヌーゲント
  • プロダクションデザイン:サラ・フィンレイ
  • 衣装:オディール・ディックス=ミロー
  • 出演:レイチェル・ワイズ、レイチェル・マクアダムス、アレッサンドロ・二ヴォラ 他

「ナチュラル・ウーマン」(2017)でアカデミー賞外国語賞を獲得したセバスティアン・レリオ監督の新作。原作はナオミ・アルダーマンの同名小説です。

「ロブスター」(2015)「否定と肯定」(2016)のレイチェル・ワイズ、「スポットライト 世紀のスクープ」(2015)などのレイチェル・マクアダムスの2人が、長く惹かれあい続けてきた女性を演じます。

また、「ネオン・デーモン」(2016)のアレッサンドロ・ニヴォラがマクアダムス演じるエスティの夫役で出演。

レリオ監督が外国語映画賞を受賞してしばらくしてすぐ北米公開されたと思います。

私は「ナチュラル・ウーマン」もすごく好きで、レリオ監督の作品をもっと見たいと思っていたこともあり、今作は海外版ブルーレイを取り寄せて鑑賞しました。

現時点では日本公開は未定ですね。

2020年2月7日(金)の日本公開が決定しました!(2019.11.20追記)

ちなみに原題となる”Disobedience”は”不服従”の意味で、作品内でも引用されるユダヤ教の教えの中の、人間だけが神の意志に逆らい自由に選択できることを指しています。

~あらすじ~

ロニートは長らく帰っていなかった故郷の町を訪れる。父の訃報を聞いたからだ。

父は故郷の伝統的なユダヤ卿の司祭であり、多くの人から信頼され、その喪失が悔やまれていた。

彼女は友人でありユダヤ教司祭になっていたドヴィッドの元を訪ね、そこで同じく友人だったエスティと再会する。

彼女はいまやドヴィッドと結婚していたが、2人の間にはいまだ消えない想いがあった。

父の遺品整理などをするうち、ロニートもエスティも互いを抑えられなくなる。

厳格で保守的なこのコミュニティではどうしても受け入れられない愛は、2人とドヴィッド、そして町を揺るがしていく。。

感想レビュー/考察

セバスティアン・レリオ監督は、人を取り巻く世界と、その世界にとって半ば拒絶されるその人の本質を、「ナチュラル・ウーマン」で描きました。

トランスジェンダーという事実もありますが、あの作品ではとにかく、世界からの敵意と孤独が描かれていて、それは普遍的なものに感じました。

今作においても、題材は同性愛となりましたが、同じく個人と世界を描きます。

しかし、今回はその世界にもうすこしディテールを足し、より複雑にしたようにも感じました。

監督は今回、世界に逃げ場を持たせないかのように、敬虔なユダヤ教徒たちのコミュニティを舞台として選んだのです。

決まりごとが強くあり、そしてその中での人には役割と在り方がある意味明文化されている世界。

どのように成長し、いつ誰と結婚しどんな風に生きていくか。そこにはほとんど選択の余地すらありません。

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レイチェル・マクアダムス演じるエスティと、アレッサンドロ・ニヴォラが演じるドヴィッドの夫婦はお手本のようなユダヤ教夫婦でしょう。

とても静かで平和に見えるコミュニティとエスティですが、ロニートの登場は確実にエスティを乱していました。

受け答えで誰が答えるのかでどことない不均衡さが表され、またエスティが学校で映されるとき、扉が閉まったときの構図が檻のようになったり。

叔父たちを招いての夕食会でのちょっと緊張の走る場面。

ロニートは根本から考え方がコミュニティと違っていて、軋轢がよく見てとれます。

そんな中、NYCでロニートが姓を変えている、そしてエスティが女性は姓を変えるという話になったとき、ほぼ全員が理解できず馬鹿げていると反応した中で、ロニートだけが納得し、お互いに眼を合わせます。

その眼、表情がとても繊細でした。

レイチェル・マクアダムスの表現力です。

マクアダムスの変化、演技は飛び抜けていて、敬虔で従順な妻から一人の女性としての告白、ロニートとの愛まで表情豊かであり一貫しています。

そしてふと思うのは、エスティこそもっとも強い人だということですね。

冒頭で自分でいうように、エスティはかなり疲れて見えます。まぶたが落ちぎみで、ぼんやりした表情で、柔らかくも見えますがやけに老けても見えます。

それが、ロニートと二人、逃避した先のホテルで完全に変わります。

ロニートを見つめるときだけは、目に輝きを持たせているのです。

ロニートが勧めても誰も吸わない煙草を、エスティだけは受け取り一緒に吸います。

そして煙草を吸いカメラを向けられたエスティの生き生きとした表情。

“Look at the camera”ではなく、”Look at me.”

ロニートを見つめる眼だからあんなに美しいのでしょう。

ドヴィッドとはとても儀礼的でシステマティックだったのに比べて、ロニートとのセックスの艶かしさと喜びは非常に美しいものでした。

二人は根本的に似ています。

個人の本質として生まれた場所や環境と違う存在。ただ一人はコミュニティに同化することを選び、一人は耐えられず出ていったのです。

これって誰しも感じることではないでしょうか?

親戚の集まりでも、地元の集会でも学校でも職場でもなんでもいいです。

何故か自分にとってそこの居心地がよくなくて、自分だけ違う、浮いている存在だと思ったことはないでしょうか?

つまり自分のために用意された本来家であるはずの場所と、自分が自分であることの本質が噛み合わないのです。

そこで生きているエスティにとっては、ロニートは唯一自分が自分でいられる相手なんです。

再開してから初めてキスをしたあと、二人歩くシーンがありますが、ロニートの言葉が印象強い。

エスティが、「女の子たちに自分の価値を知ってほしい、生き方を選んで。それを教えるのが私。」というと、ロニートはすぐに「あなたはどうなの?」と聞きました。

半ばあきらめた自分の生に対し、常にそれを想い心配してくれる人を、愛さないわけないですよ。

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ともすれば世界に抗う二人の女性の愛を描いた作品で、それはそれで素晴らしいのですが、先述のように彼女たちのいる世界は少し複雑に、そしてそれ故に今作はより普遍的になっていると思います。

それはドヴィッドの存在と彼の描写です。

彼も居場所を選べなく、13歳からユダヤ教の司祭のもとで育っています。間違いなく、この保守的で伝統を重んじるコミュニティに生きています。

しかし、妻エスティとロニートの関係は、彼の生きる世界そのものを破壊しかねません。

監督は保守的ユダヤ教コミュニティを悪役にせず、誰かの本質が誰かの世界を壊してしまう怖さを入れ込んでいるのです。

究極のジレンマを入れ込みながらも、そこで見事にバランスをとって答えを出して見せるレリオ監督。

生まれる場所もコミュニティも選べない私たち。

ですが、どう生きるかだけは選べる。

その自由だけは誰しもにあって、決して誰かが奪って良いものではありません。

ドヴィッドは妻を、子を失うと知りながら、彼が信じ続けてきた神の教えを守り、神の使徒としての役目を果たします。

魂の解放。

全て崩れるかと思いながら、しかし彼にとっての生を証明する。

愛するものを、迷えるものを支え、手を差し伸べ助ける。

「あなたは自由だ。」

ドヴィットの言葉はエスティに、あの場にいた全ての信者たちに、そして作品を観るすべての人に向けられていて、赦しと解放がありましたね。

原題は”Disobedience”=”不服従”という意味ですが、これはまさに冒頭での司祭ススピーチ通り、私たち人間のことです。

動物と違い、神の意志のままに生きず、反抗することができる唯一の存在。この服従しないというところにこそ、人間の強さがあるのかもしれません。

オープニングすぐと似たような、3人のうち二人がすごく近づいているショットになりますが、今度は3人で抱きしめあう。

ドヴィットに包まれる2人は回した手をしっかり握りあう。とても素晴らしい抱擁です。

セバスティアン・レリオ監督はやはり世界と個人を描きましたが、今回は違う世界の人間をうまくそれぞれ見せて、ある意味で世界や規範が違っても抱き合い支えあい生きていけることを示しています。

生きる自由と人を自由にする力。

静かなドラマですが信じられない力を持っています。監督の今後の作品もより楽しみになりました。

感想としてはこのくらいで。

あとから気づいたのですが、煙草の使い方やカメラとか、「キャロル」っぽい描写だなと。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

それでは。

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