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「ドイツ零年」”Germania anno zero” aka “Germany Year Zero”(1948)

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映画レビュー
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「ドイツ零年」(1948)

  • 監督:ロベルト・ロッセリーニ
  • 脚本:ロベルト・ロッセリーニ、カルロ・リッツァーニ、マックス・コルペット
  • 製作:ロベルト・ロッセリーニ
  • 音楽:レンツォ・ロッセリーニ
  • 撮影:ロベール・ジュイヤール
  • 編集:エラルド・ダ・ローマ
  • 出演:エドモンド・メシュケ、エンルスト・ピットシャウ 他

「無防備都市」(45)、「戦火のかなた」(46)でナチスドイツの卑劣さと凄惨な戦争を描写したロッセリーニ監督が、今度は戦後ドイツの民衆を描いた本作。

私は↑2つと、「神の道化師フランチェスコ」(50)くらいしかロッセリーニ監督作を見ていないのですが、すでにそれらはなかなかのお気に入り映画の一つとなっています。

70分ほどの短さに、戦争後の人たちの細かな描写がしっかり詰まっている本作です。リアリズムを感じる暗く重い沈黙の残るものとなっていますが、おすすめですよ。

第二次世界大戦終結後の崩壊したドイツ、ベルリン。

全てが廃墟と化し、瓦礫に囲まれた中に、民衆が墓穴を掘っていた。その中にまだ10歳少しの少年エドモンドがいたのだが、子供はいらないと追い出されてしまう。

彼にはお金が必要だった。病気の父に母は亡くなり、元ナチの兄は家にこもりきり、姉も働いているが生活は苦しかったのだ。

冒頭から長めのショットで廃墟が映し出され、その広さに愕然としてしまいました。

墓穴堀りから始まり、短い上映時間に無駄なく民衆や人物の苦しさがうかがえます。死んだ家畜に群がる人々、ボロボロの家屋、ストリートチルドレンが犯罪に手を染め、人々は自分の生きるので精一杯。

亡くなった人から日用品を取ったり、周りの人のとげのある言葉も。

姉は夜に金持ち男や外国兵のいるクラブへ行くのですが、それだけでも辛いのに、ふとした会話からどうやら想い人がいることがわかるので、余計に辛いのです。

エドモンドの方も、稼ぎに行こうとする際にふと、広場で遊ぶ子供たちを見るのです。混ざろうにも遊んでいる余裕はない。

ラストで遊ぼうとするシーンは、逆に生をあきらめたように思え、そこで仲間に入れてもらえないのが観客の心を打ちのめします。

比較的長めに回されるカメラ、厳しく接し合う人々。子供に向かって、その親が死んだ方がいいとさえ言う。この過酷さは、戦争からきたもの。戦争に終わりなど無いのです。

後半部へいき、エドモンドの心が完全に蝕まれていくと、白黒の画面が最大限に生かされてきています。

父の死後、黒いボヤがまるで亡霊のように画面に掛かり、エドモンドは暗闇や影にいることが多くなります。環境的には、ストリートチルドレンに追い払われ、先述のように子供の仲間にしてもらえないなど、孤独を増していくのです。

光に背を向けて座り、序盤と違い廃墟を歩く時もうつむいています。

そして教会の鐘の鳴るシーン。人々が立ち止まって日向で塔を見上げる中、エドモンドだけがそれから逃げるようにして影の中へと歩き出す。

父は逝った。彼の言葉のようにすべての業を背負ったかのように。

まるでナチスドイツが虐げたユダヤ人のような、縞模様のパジャマを着て、彼らのようにやせ細り、毒で死んだ。これは贖罪なのかもしれないです。

兄はそのナチという経歴に憑りつかれ、自由を奪われている。

そしてエドモンドはいまだ残る火種に影響されて罪を犯してしまった。彼は悔やんでいたのは確かです。そして絶望もした。決断は自分を裁いたり、罪滅ぼしにも思えます。

しかし、そのエドモンドという少年すら、私にはこの大きな戦争とそれに邁進していった者たちの罪を背負わされ、代償を払わされた大勢のうちの一人だと思えるのでした。

ドンドンと響く音は、かつてその廃墟で鳴り響いていたであろう爆撃音がいまだにこだましているように感じ、その凄惨な悪夢がエドモンドを襲いました。

争い人を殺した。それがどれだけの罪であり、その罪が未来に生きる人にさえ代償を払えと迫る。一度起こした戦争という暴力が、永遠と影を落としていく恐ろしさ。

少年の行為と結末の沈黙から、深く根付いている魔をみせる力作です。是非見てみてください。

と、ここでおしまい。暗くなっちゃいましたね。また次の記事で。それでは~

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