「処女の泉」(1960)

  • 監督:イングマール・ベルイマン
  • 脚本:ウラ・イザクソン
  • 製作:イングマール・ベルイマン、アラン・エーケルンド
  • 音楽:エリク・ノルドグレン
  • 撮影:スヴェン・ニクヴィスト
  • 出演:マックス・フォン・シドー、ヴィルギッタ・ヴァルベルイ、グンネル・リンドブロム、ヴィルギッタ・ペテルソン 他

スウェーデンの名匠、イングマール・ベルイマンの監督作で、「第七の封印」(1957)と似たようなテーマを扱うもの。アカデミーとゴールデングローブでは外国語賞を、カンヌでは特別賞を受賞し、世界的に高い評価を受けた作品です。

ベルイマン作品はそこまでたくさん見たことがないのですが、やはり代表的な作品ということになるんでしょうか?当時にとってはかもだけど、今見ると・・・という声も聴きますが、演出された上では今でも衝撃的でおぞましい印象があると思います。

中性のスウェーデン。敬虔なクリスチャンの家庭が暮らしていた。テーレとメレータ夫婦、そして彼らの娘で美しいカリン。一家の養女であるインゲリは密かに異教を信仰し、自分とは対照的にかわいがられ何の苦労もないカリンを恨めしく思っていた。

ある日のこと、両親はカリンをインゲリと一緒に森へ行かせる。早朝に行くはずだったミサに行かせるのだ。そかしその道中、貧しい羊飼いの兄弟がカリンに忍び寄る・・・

人によっては今見るとぬるいという方もいますが、やはりレイプ描写は残酷に感じます。それはオーバーなほどまでにカリンの純潔さが示されたからこそでしょうが、直後の朦朧とした姿も抜け殻の人間を観るようで辛いものでした。

信仰の厚い家族に情け容赦なく襲い掛かる暴力。そして人間である証のように復讐に手を染めてしまう。神に仕え、祈り続けても救われないことは、何度も問われる神の沈黙。というか、不在といってもいいかもと思いました。

一本の木を倒すテーレのシーンがありますが、信仰が折れてしまうことや、とても大切な生きがいである娘を失ったことなど、支えになっていたものが失われる様を見るようでした。

罪の返しに罪を犯す。全体に家の中の陰影のつけ方や、木の置き方がおどろおどろしいこともあって、独特の雰囲気を持っています。

罪なき娘が襲われても手を差し伸べず、また父親が人を殺すことも黙ってみている。神はなぜ答えないか? しかし、この二つの黙認は人間にも問いただすことができます。なぜインゲリはカリンを助けなかったのか、なぜ妻は夫を止めなかったのか。神に置き換えて少し逃避をしているようにも感じました。

沈黙以上に不在を感じます。神の入る余地などない。テーレが天を仰ぎ祈る場面では、その画面には上部に余白がありません。神がいるとしても、存在を感じられる空間が無いのです。

それを観た後では、いくら泉が奇跡のように湧き出てきても、何の神聖さも感じなかったですね。人は何かに絶対的な善や公平さをゆだね、安心したいだけかもしれません。

まぁ、一般的に見れば、湧き水は奇跡なんだとは思いますが、私個人としては上の通り。

この信じることに本質的に疑問を投げること。他の映画とはまったく異なる画を持った作品で、宗教的な話だからと敬遠することはないです。おすすめ。

とりあえずさらっと感想を書いてみました。ここで終わります。それではまた~

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