「ボーはおそれている」(2023)
作品解説
- 監督:アリ・アスター
- 製作:ラース・クヌードセン、アリ・アスター
- 製作総指揮:レン・ブラバトニック、ダニー・コーエン、アン・ロアク
- 原案:アリ・アスター
- 脚本:アリ・アスター
- 撮影:パベウ・ポゴジェルスキ
- 美術:フィオナ・クロンビー
- 衣装:アリス・バビッジ
- 編集:ルシアン・ジョンストン
- 視覚効果監修:ルイ・モラン
- 出演:ホアキン・フェニックス、ネイサン・レイン、エイミー・ライアン、スティーブン・マッキンリー・ヘンダーソン、ヘイリー・スクワイアーズ、ドゥニ・メノーシェ、カイリー・ロジャーズ 他
いつも自分自身の精神や経験を映画に込めてみんなを不安にさせているアリ・アスター監督の新作ということ、またホアキン・フェニックスが主演になることなどとにかく期待する要素が多い作品。
公開を楽しみにしていた映画で、公開週末にさっそく観てきました。上映時間自体が3時間くらいあるので、ほかの映画のスケジュールが組みにくかったですがね。
お客さんの入りはそこそこありました。なんか「ミッドサマー」の時から結構若い人にもアリ・アスターが知られているようです。A24の映画がファッション化しているのも関係ありそうですね。
~あらすじ~
ささいなことでも不安を抱えてしまう怖がりな男ボーは、母に会いに行くためにフライトに乗る準備をしていたが、アパートの部屋のカギを盗まれてしまったことで出発が遅れてしまう。
そのことを母に電話で伝えると、母から会いたくないから嘘をついているんだと責められてしまう。
あたらめて母に電話すると、見知らぬ男が電話に出て母親が急死したと言い出すのだった。
慌てて母のもとへ向かおうとアパートを出ると、そこには通常の日常とは異なる世界が広がっていた。
そして、予期せぬ出来事が続き、現実と妄想の狭間で揺れ動く中、ボーの帰省は思わぬ大冒険へと変化していく。
感想レビュー/考察
これまでにもアリ・アスター監督は自分自身の心の中とか人生の整理に映画を使って挑戦してきたと感じます。
彼自身が自分自身にかかっている呪いをどうやって整理して、どうやって世界に吐き出していくのか。
もちろん監督の真意とか本当のことは分からないですが、私には彼が映画を通して人生の主導権を取り戻そうとしているように感じます。
それはまさに「ヘレディタリー」のなかでトニ・コレットが演じていた母親が、模型作りという行為を通して耐え難い喪失をなんとか支配しようとしている様に重なります。
あまりに鬱すぎて、辛すぎて苦しいと、自分の人生なのにその出来事や人生自体に個人が飲まれてしまう。
だから起きていることや起きたことを第三者視点だったり俯瞰視点で観ることができる、観るようになる芸術の想像を通して、なんとか主導権を自分に戻そうとするわけです。
3時間にわたるパニック発作
その意味で今作は3時間にわたるパニック発作だと思われます。
混乱し当惑し、不安と恐怖とに苛まれて精神的におかしくなるその感覚をそのまま映画にしたように感じます。
注意する点としては、今作はコメディであること。
というかコメディであると思えて笑えなければ、社会不安障害やパニック障害の人の頭の中に放り込まれて発作に3時間付き合わされることになるので、耐え難い映画体験になると思います。
コメディなんだという視点で観ることのほかに、もう一転大事なのは現実と幻覚の区別を捨てることです。
精神世界の旅とか現実に起きていることとか、まじめに観ないほうが良いです。一つ一つの事象は象徴であったりボーの恐怖だったり。そこに論理的な説明や実現可能性を求めない方が良いでしょう。
私も序盤のアパートでのシーンあたりは比較的まじめに観ていましたが、途中からは作品全体をぼやっと見ていればよくて、いちいちこれはおかしいとか気にしなくなりました。
強烈な母の愛情と支配
さて、今作は「サイコ」のごとき強烈な母親像によって人生を支配された哀れな男のお話です。
そしてそれはアリ・アスター監督自身の話にも思えたりそうでもなかったり。この作品では生まれ落ちることが呪いであるかのように描かれるOPから始まります。
なにやら雑音と朧げな光、赤みある画面で始まると、それはボーがこの世に生を受けた瞬間の映像だとわかります。それも主観視点。母の胎内から出てきたところなのです。
そこでタイトルが出てくるわけで、「外の世界はすべて怖いんだ」と言っているようにも思えます。何にしても、産まれたことがこのホラー映画の始まりということで、生きることは恐怖だというわけですね。
何もかもが怖い外の世界
アパートでの生活はボーの不安や恐怖を大げさに描いたものですね。タトゥーの多めな人が怖いとか、通りには凶悪犯がいるかもしれないとか。周囲の人間がみんなとても悪いやつに思える。
安心できる場所であるはずのボーの部屋。
そこで鍵を失うという不安に、知らない人間たちに踏み荒らされるという恐怖が重なっていく。この辺ですでに笑えましたけれど。
歪んだ家族の像
そのあとボーが転がり込んだ家では家族における歪み、愛の偏りが描かれます。「エデンの東」なんかでも描かれますが、両親のお気に入りの子どもとそうではない子ども。
偏向した愛情は、今は亡き兄にだけ注がれて、残された妹は見向きもされていません。
そのあとの森で出会うヒッピーみたいな連中との話は、映画監督になった アリ・アスター監督自身を語っているように感じます。
芸術家というのは自身の内面や人生を芸術に込めたり、理想を語るものなのかと。
この中盤のあたりでは結構眠気が襲ってきまして。ヘイリー・スクワイヤーズがみれてうれしかったですが。
この辺の妄想と分かりやすい妄想は、ボーにとって自分自身の人生を得るための最後のチャンスだったでしょう。母の葬儀のために家に帰るという結末を回避できるなら、ここだけですから。
しかしすべては母の策略であり、何もかもがボーを帰省させ再び支配するためのモノでした。
エレインとのセックスでマライア・キャリーの「Always Be My Baby」が流れているとか、そのあとの展開考えるとちょっとキモさすら感じる。
そして映画史に残るちんぽこモンスター。
母から聞かされていた父のこととか、実際父親を知らないために、自分を生んだという事実つまりセックスしたということだけが頭にあるため、ちんぽことイコールの存在として画面に出てきたのでしょうね。おもしろすぎる。
支配するうえに相手が悪いと罪悪感を押し付けてくる
ある意味予想通りすべては母の思惑通り。最後にボーは裁判にかけられます。この点はボー自身の罪悪感から出てきたシーンでしょうね。序盤のセラピストとの会話でも、罪悪感、罪がキーワードでした。
あそこで出てくる例が結構あるあるな子どもの頃の申し訳ない案件で笑えます。想像してたより親が自分のこと心配しちゃって、出るに出れなくなってしまうやつ。
まあここについてもボーの自由意志ではないでしょう。これもモナの仕組んだもの。母は自分の愛情に対してそれを返さない息子に、罪悪感を覚えてなんなら罪の意識から死んでしまえとすら思っているのでしょう。
この作品のOP。生まれる瞬間から始まると言いましたがそのもう少し前にマジで意地悪な仕掛けがあります。
それは各社のロゴが登場する映画の始まり。そこに「モナ・ワッサーマン」というロゴが出るんです。もちろん架空の会社ロゴ。母の名前ですよ。
つまりこの作品はモナが作り上げたものなのですべて彼女の思い通り。
初めからボーの物語でもなんでもなかったのですよ。
3時間のパニック発作で、この精神的な不安と障害を観客にもそのまま体験させるというタイプの不幸のおすそわけ映画です。
これまでの前2作に比べると怖さとかいろいろと物足りないですし、なによりも人を選びます。なのでアリ・アスター監督の作品の中ではわりと大人しいのかもしれませんが、監督だけにしか作れないものでもあるかと。
この先もどんな不幸をこちらにおみまいしてくるのか楽しみではあります。
今回の感想はここまで。ではまた。
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