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「奴らを高く吊るせ」”Hang ‘Em High”(1968)

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映画レビュー
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「奴らを高く吊るせ」(1968)

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作品解説

  • 監督:テッド・ポスト
  • 脚本:レナード・フリーマン、メル・ゴールドバーグ
  • 制作:レナード・フリーマン
  • 音楽:ドミニク・フロンティア
  • 撮影:リチャード・H・クライン、レナード・J・サウス
  • 編集:ジーン・ファウラー・Jr
  • 出演:クリント・イーストウッド、インガー・スティーブンス、エド・ベグリー、パット・ヒングル 他

マカロニ(スパゲッティ)ウエスタンで一躍スターになったイーストウッドが、ハリウッドで初のウエスタンに出演した本作。監督は後に「ダーティハリー2」で再びコンビを組むテッド・ポストです。

名無しの男とは違うテイストながら、確かに正統派アメリカ西部劇とは異なる感触を持つこの作品で、のちにイーストウッドが監督になって描くものの片鱗が見えている気がします。テッド・ポスト監督の”私刑”に対する目も見所です。

~あらすじ~

元保安官で今は牧童であるジェド・クーパー。彼は買った牛を輸送しているところを、9人の男たちに襲われる。ウィルソン元大尉率いる男たちは、牛泥棒を追ってきたのだった。

ジェドは牛の売買領収書を見せるも、男たちはジェドが牛泥棒だと決めつける。無実の訴えも虚しく無視され、そしてさらに悪いことに、裁判でなくその場でつるし上げられることになってしまう。

高く吊るされたジェドだったが、偶然通りかかった連邦保安官に助けられる。奇跡的に生き延びたジェドは自分をつるし上げた男たちを探し始める。

感想レビュー/考察

オープニングから強烈な絵が観れる本作です。

なにせあのイーストウッドが縛られ殴られ縛り首です。そして吊るされたところで下からのアングルに”クリント・イーストウッド出演”と文字が出る。

切り替わってやはり吊るされた足に”奴らを高く吊るせ”のタイトル文字。

なかなかに物騒かつ、今作は復讐劇が根底に置かれるからか真っ直ぐなお話には感じず、いろいろと考えることが多くなってきます。

まずもってこの冤罪での私刑といえばウィリアム・A・ウェルマン監督の「牛泥棒」(1943)を思い出すことでしょう。

あちらの映画でも私刑によって無実の人間を殺してしまうことを描いていますが、今作ではもしその人物が生きていたらというような展開に。

今作におけるドミニク・フロンティアのテーマ曲は素晴らしいですね。ちょいマカロニっぽくもあり、しかし行進曲のようなメロディーです。

生き延びた男は復讐鬼のようになり、かつて自分を吊るしたものを探し始めますが、ここでは私刑と法治の曖昧なところを歩かせます。

ジェドは連邦保安官として法の名のもとに犯人を捜し追い詰めますけど、同時にかなり私的な復讐をする機会にもなっています。

正当な倫理背景を持って行う個人的復讐。そのぎりぎりのラインで正当な裁きを選んだ彼ですが・・・

待っていたのは判事の宣伝だけ。彼はうまいこと判事の州昇格計画に組み込まれていただけだったのだからこれは辛い。

さらに吊るした9人組の中には後悔して自首する人がいたり、同じく(最悪な意味での)私刑に苦しんだ女性がいたり。自分が今していることに少し疑問を持ち始めるジェドに見えました。

あいかわらずカッコいいこのイーストウッドのまなざしからぐっと引いたカメラ。

そこには死刑なのか私刑なのか解らない、絞首台があります。町でのイベント、見世物。

実録的で長々とした絞首刑の執行シーン。自分のように正当に裁かれていない兄弟をみるジェド。罰するためでなく、世間体のために台へと送られた二人です。

暴力行為はリンチであり私刑ともいえます。

そしてそれに対しての報復もまた私刑。しかし正当な法の裁きというのもまた、個人ないし集団社会の私刑であるのかもしれません。絶対的な裁きは人間ではなせないのだと。

最後に銀の星を手にしたジェドは、それでも正しく人を裁いていきたいと思っていたのかもしれません。

西部の掟でもある私刑。その存在自体は消すことはできないながら、それでも正しい裁きを忘れてはいけないことを見せているように感じました。

今回はこれで。それでは、また。

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