「TAR/ター」(2022)
作品概要
- 監督:トッド・フィールド
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脚本:トッド・フィールド
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製作:トッド・フィールド、スコット・ランバート、アレクサンドラ・ミルチャン
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製作総指揮:ケイト・ブランシェット、フィル・ハント、スティーヴン・ケリハー、マルクス・ロゲス、コンプトン・ロス、デヴィッド・L・シフ、ウーヴェ・ショット、ナイジェル・ウール
- 音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
- 撮影:フロリアン・ホーフマイスター
- 編集:モニカ・ウィリー
- 出演:ケイト・ブランシェット、ノエミ・メルラン、ニーナ・ホス、ジュリアン・グローヴァー、マーク・ストロング、ゾフィー・カウアー 他
「アイズ・ワイド・シャット」などでは俳優として、そして「リトル・チルドレン」など監督としても活躍するトッド・フィールド監督が、実に16年ぶりにメガホンをとる作品。
高名な指揮者が楽団を率いて公演に向けて準備を進める中で、過去のハラスメントについてのスキャンダルと告発に追い詰められていく様を描きます。
主演は「キャロル」や「ブルージャスミン」などのケイト・ブランシェット。
また「燃ゆる女の肖像」、「パリ13区」のノエミ・メルランの他、ニーナ・ホスやジュリアン・グローヴァー、マーク・ストロングが出演しています。
今作は作品自体も、そして特にケイト・ブランシェットの演技が非常に高く評価されており、ヴェネツィアでの受賞の他、ゴールデングローブ賞、アカデミー賞にもノミネートを果たしています。
実はトッド・フィールド監督作ってほぼ未見でして、記憶がないのです。すっごくまえに観たような気もするけれど、忘れてしまいました。
今回は評判がいいこともありつつ、やはりケイト・ブランシェット目当てでの鑑賞になりました。
公開週末に早速の鑑賞でしたが、賞レースがらみもあって注目はされているようで人は多め。でも若い人はほぼいなかったですね。
題材的にはものすごく現代劇なので、若い世代の方が理解しやすい気もするのですが。
~あらすじ~
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団において首席指揮者を務めるリディア・ター。
語り切れないほどの功績と、圧倒的な実力を備えたリディアには賞賛と権力が集中していた。
彼女は次の演奏会の準備を進めており、マーラーの交響曲第5番の指揮と、もう一つの選曲をする。
順調に思えるリディアであったが、彼女の助手であるフランチェスカは、クリスタという女性からのメールの対応に悩んでいた。
さらにリディアの妻シャロンは、リディアが楽団に入ってきた若いチェロ奏者に妙にひいきするのも気になっている。
天才的指揮者の権力と過去、次第にリディアへの告発が始まり、事態は混迷を極めていく。
感想/レビュー
リディア・ターという存在はフィクション
今作に対して一つ外側の議論がありました。
それはこの主人公リディア・ターが実在の人物ではないかということです。
彼女はフィクショナルなキャラクターです。今作は伝記や実録映画ではないので注意しましょう。
リディアに関しては実在の指揮者マリン・オールソップが元になっているのではないかとされており、オールソップ本人も「女性として、指揮者として、そしてレズビアンとして、この作品に気づつけられた」と話しています。
ただ、作品を観て私としてはこの作品が女性や同性愛者、ましてや指揮者を貶めるようなものであるとは思いませんでした。
ちなみにリディアが実在の人物ではないかと思うのは、単純にトッド・フィールド監督の手腕とケイト・ブランシェットの名演によるものだと思います。
クラシック音楽という古典に現代を見る
さて、オールソップの批判から、女性とか同性愛者のことが出てきましたが、議論がそこにあるのは当然と思います。
今作は指揮者を通して古典であるクラシック音楽の世界を観察し、そこから非常に現代的な議論を広げています。
その議論は序盤に集中します。
まずはリディアが招かれての対談シーン。
”女性”指揮者であること。マーラーの第5番という作品と彼の個人的なドラマ。
多くの専門用語や人名が飛び交うシーンではありますが、ジェンダー論や芸術と個人の境界線について語っています。
そしてその作品と作者の議論は圧巻のワンショットとしてクラスでリディアが講義しているシーンに繋がっていく。
キャンセルカルチャーのとらえ方
昨今の議題であるキャンセルカルチャーに対して深く切り込んでいき、作品と作者の評価の面を見せていきます。
貧乏ゆすりの細やかな演出から後のリディアに対するノイズの布石を交えつつ、さらには彼女に降りかかる告発にも繋がる素晴らしいシーンでした。
長回しの意味としてその連続性を大切に。一連の流れだからこそ意味があるものを観客に見せつつ、後に切り取りが告発に使われる。
編集によって全く異なる意味になり、それが拡散し批判されていくのは現実的です。
例えば映画界で言えば「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズを生み出したジェームズ・ガン監督は、過去のツイート内容などからキャンセルカルチャーの対象となり、一時はシリーズ最新作の監督を降板させられました。
これはまさに作品と作者の関係性を議論した例だと思います。
ロマン・ポランスキーが受賞することは、作品への評価ですが、彼の犯罪行為に対して嫌悪感を示して抗議するアデル・エネルの考えも理解できる。
私達は現代社会の様々な場面でこのようなことを見かけ、その範囲は過去の偉人たちにまで及んでいるのです。
議論は他にも、パワハラにえこひいき、人種問題などにも広がっており、これらに決定的な答えを用意する映画ではないですが、リディアの目を通して権力を得ているものの側を覗くことはできます。
集中する目線と権力
トッド・フィールド監督は細かい描写に様々な解釈を設けています。
その人の容姿や人種性別が影響しないように配慮されたオーディション。
しかしあの足元と靴のショットから間違いなくリディアの選択に何かが影響したことは分かります。
ノエミ・メルラン演じるフランチェスカを主に捉えていたOP。彼女のリディアへの想いもただの敬意ではないはず。
ホテルでフランチェスカがリディアの部屋に残りたそうにしているシーン。
ピアノの前に座ったリディアを見つめるフランチェスカは鏡にも映り込んで左右からじっと見つめているような構図になっています。
リディアには間違いなくパワハラやセクハラの要素があるはずです。彼女の視点に寄り添っていてもそれは明白です。
副指揮者であるセバスティアンをクビにするシーンでの、墓穴掘らせての流れは、力を持つものの常套手段で笑えてくるほどです。
権力構造への問いかけ
オーケストラは上下関係を図式にしたようです。リディアを中心に皆がいる。
さらに、リディアはパートナーであるシャロンをコンサートマスターとして抱えている。
プライベートにおいて重要な人間を、オーケストラにおいても重要なポストに置くとは公私混同の極みです。
オルガをみつけてからの執着についても、愛なのか欲望なのか分からないほどですが、ソロ走者を選ぶところなんて、リーダーの人を公然と外して場をざわつかせてでも進めるんです。
しかも、オーディションでは心理構造も使ってオルガを受からせる。
自分の持つパワーをフルに利用し、私物化したオーケストラで彼女はパートナーを抱えながら新しい愛欲の対象をモノにしようとするわけです。
実際、この権力構造というのは現実のいたるところにありつつも、大抵は男性が中心にいる。
だからこそ、レズビアンであるリディア・ターという女性を中心に置くこと自体が問いかけを呼び起こすのです。
権力の没落
しかし作品はリディアのダウンフォールを描く物語です。
頭打ちになっていることを示唆するような、トンネルの天井に近い位置にカメラが置かれるショット。
リディアのハラスメントがコントロール不能になっていく様子に、ミステリーとも言える音を使った演出が使われています。
リディア自身が音をヒントに作曲することもありますが、出処不明の環境音、ノイズの存在はまさに彼女自身が意識もしなかった被害者からの声そのものです。
貧乏ゆすりもペンのカチカチも彼女は手で(力)押さえつけるか、見えないところに隠して排除してきた。
それが、消えないノイズとして対処しきれなくなっていくわけです。
指揮者になったケイト・ブランシェット
権力を得たリディア・ターを演じるケイト・ブランシェット。
知識があり会見に臨み、ケガもユーモア混じりの会話からうまくかわし、知性溢れながら力強さもあるリディアになりきっています。
彼女が実際にそこにいる指揮者だと思える圧巻の演技です。
かつ、ケイト・ブランシェットの凄さはリディアに多面性をしっかりと持たせている点だと思います。
指揮者として表に出るときと、妻やフランチェスカと過ごす場面。子どもと過ごす場面などその場や相手次第でペルソナを変えて生活するところまで表現しています。
決してリディアを手放さないながら、キャラクターを血の通った人間にしていると思います。
ドイツ語の切り替えにピアノの演奏など、必要なスキルを習得して挑むケイト・ブランシェットに脱帽です。
トッド・フィールド監督は今作の脚本を彼女に宛書したそうで、出演が叶わないなら映画化はしないと決めていたとか。
結局出演が決まりましたが、はじめにエージェントに連絡して断りの電話を受けたときには、運転中の車で事故ったらしいです(以後調子の悪い車の雑音が、リディアが車中で聴く雑音として使われているそうです)。
俳優陣は皆精密に調律されたような配役と演技で、ケイト・ブランシェットの指揮を持って従ったり反発したりと全体がドラマチックで楽しめます。
過去からの亡霊との対峙
ダウンフォールのきっかけは過去との対峙であり罪の意識に基づきます。
OPのフランチェスカがライブチャットしている部分がそのまま今作の物語全体を表しているでしょうか。
”Haunted”(取り憑かれている)の言葉通り、リディアはクリスタをはじめ過去に傷つけた者に苛まれる。
そしてそこにかすかでも良心があったからか、リディアは罪悪感と対峙していく。
断罪
クリスタから送られた本「挑戦」はヴィタ・サックヴィル=ウェストによる小説です。
内容としてはヴァイオレット・トレフューシスとの愛でありますがしかしヴァイオレットは度々、ヴィタに捨てられるなら自殺すると脅していたそうです。
また本の中にハニカム模様のようなデザインが書き込まれており、何度もそのパターンが登場しますが、これは南米ペルーのシピボ族によるものとか。
蛇の鱗模様のようで、蛇は神聖な生き物とされ浄化の意味を持つのだそうです。
リディアが夢に見る森の中のシーン。
蛇が彼女に近づき彼女には火がつくというのは、断罪の時が来たことを示唆するのでしょう。
幽霊もいくつかのシーンで映り込み、スリラーともホラーともとれる作品。
現代における議論を展開しながら幽霊映画として、隠したいエゴや傲慢さ、過去の罪との向き合い、キャリアの没落を露わにしていく。
何度も訪れる程に深みを増すサイコスリラーでありドラマであり。
本当に圧倒された作品でした。
何をどういえばいいか分からないですが、私にとっては完璧と言っていい映画です。
ケイト・ブランシェットの演技目当てでも良いですし、現代劇としても、権力というものへの洞察としても非常におもしろい作品でした。
今回はかなり長めの感想になりました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ではまた。
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