「悪魔のいけにえ -レザーフェイス・リターンズ-」(2022)
作品概要
- 監督:ガーシア・デイビット・ブルー
- 脚本:フェデ・アルバレス、ロド・サヤゲス、クリス・トーマス・デヴリン
- 製作 フェデ・アルバレス、ロド・サヤゲス、キム・ヘンケル、イアン・ヘンケル、パット・キャシディ
- 音楽:コリン・ステットソン
- 撮影:リカルド・ディアス
- 編集:クリストファー・S・キャップ
- 出演:エルシー・フィッシャー、サラ・ヤーキン、ジェイコブ・ラティモア、ネル・ハドソン、オルウェン・フエレ 他
連続殺人鬼タイプのホラー映画の原点とされ、ブギーマン、フレディ、ジェイソンなどの派生を多く生み出した伝説の作品「悪魔のいけにえ」。
その作品からの直接的な続編という位置づけで再びレザー・フェイスの殺戮を現代によみがえらせたのが今作。
監督は「Tejano」を2018年にとり、今作が長編2作品目となるガーシア・デイビット・ブルー。
出演は「エイス・グレード」で素晴らしい演技を見せたエルシー・フィッシャーや「ハッピー・デス・デイ2U」などのサラ・ヤーキン。
今作はオリジナル1作目のラスト・ガール(最後に生き残る主人公)であるサリーも登場しますが、演じていたマリリン・バーンズはすでに亡くなっているため、「MANDY マンデイ地獄のロード・ウォリアー」などのオルウェン・フエレが代わりに演じています。
「悪魔のいけにえ」自体は結構前学生時代に初めて見て、子供のころからたくさんみてきた怪人、連続殺人鬼の祖に出会えて光栄な気持ちになったのを覚えています。
続編はほぼ見たことがなく、リメイク?だったかはちょっと見た気もしますが、今回は改めて初代から時間軸としてそのまま続く作品だとのことで見てみました。
劇場公開予定で動いていたらしいですが、試写の時点でさんざんな評価だったことからネットフリックスに売却され、配信での公開になりました。
「悪魔のいけにえ -レザーフェイス・リターンズ-」ネットフリックス配信ページはこちら
~あらすじ~
1973年の8月、テキサス州の田舎町で旋律の連続殺人事件が起きた。
若い男女が次々と惨殺されたこの事件は、一人の生き残りサリー・ハーデスティを残すものの、彼女はあらゆる取材に対し口を閉ざしている。
その町には人の皮をかぶった怪物レザー・フェイスが出ると噂されており、いまもなお地元住民を悩ませている。
そんないわくつきの町にライラと友人たちは新しいビジネスを始めるために訪れる。
姉のメロディや友人たちはこの町を生まれ変わらせ、そのための出資を募るためのパーティを開くことになっている。
到着した小さな町で修繕する物件を見に行くと、一人の老女と彼女を介護する大男が住み着いていた。
所有権のことでもめてしまったことで老女は心臓発作を起こし救急隊に運ばれるも搬送中に死亡。
そこから悪夢が始まる。
付き添っていたのは大量殺人鬼レザー・フェイスであり、次々と救急隊員を殺害し、老女の顔の皮をはぎ取って装着。
若者たちがいる町へと戻っていった。
感想/レビュー
追従し作られた作られる必要のない作品
最近多いタイプの追従型とでもいうべきでしょうか。
続編、前日譚、スピンオフ、リメイク、リブートなど様々な派生がある中で、もう一度限定に立ち返る映画。
正当な続編としての展開はターミネーターフランチャイズでは「ターミネーター:ニュー・フェイト」、そして同じくホラー畑ではデヴィッド・ゴードン・グリーン監督の「ハロウィン」があります。
位置づけとしてはまさにその「ハロウィン」に近しく、着想はほとんどまんまです。
であるとするなら、そのほかの続編などを押しのけて、オリジンからそのまま続く物語としての試みはどうであったのでしょうか。
それはレザー・フェイスの歴史に汚点を残すレベルのとんでもない出来になっていました。
なぜこれを作ったのか理解できません。サーガとして不要ですしし根本的な理解も質も低すぎると思います。
レザー・フェイスを借りて作った多くの作品は、伝説に対して敬意を払いつつもオリジナルの路線を進みました。
それにも関わらずこのオリジナルはそれらに迎合するような意味の分からない路線変更をしてしまっています。
「悪魔のいけにえ」への理解の乏しさ
原作に対しての製作側の理解が乏しすぎるのはかなり問題になっています。
そもそも「悪魔のいけにえ」の大成功に関わる点。それは当時のアメリカ映画界における表現特に暴力に対する規制の強さがありました。
人体の欠損はもちろん、流血ですら厳しく審査されていた。
だからこそトビー・フーパー監督はできる限りの”見せないこと”からも恐怖を顕在化しようとし、それが結果として偉大なるホラー映画を生み出したのです。
思い返していただければ、いかに「悪魔のいけにえ」で流血シーンが少ないかわかります。
直接的に人体を破壊したり、刃が皮膚を貫くところすらありません。
見えないということが想像を掻き立て、事実を強烈にしていたのですが、今作はただのスプラッターポルノのようになってしまいました。
基本的にはその造形物とか異様な空気、狂気だけしか存在しない画面というものが魅力であったと思います。
とくにあの有名すぎる晩餐会とか。
今回もギャップ?、異物との同居を目指そうとしたのかもしれないあのパーティ用のバス内での大量殺戮。
しかし、ネオンライトの中のレザー・フェイスは怖いよりも滑稽でしかありませんでした。
中途半端な社会的要素
まずもってオリジナルにおける生き残り、”ラスト・ガール”であるサリー・ハーデスティを持ってきた点についてはマジで「ハロウィン」のもろパクリでしかないです。
18年の「ハロウィン」の素晴らしさは、ホラー映画にPTSDの側面で着目する点あったのに、ただ表面をなぞって対決を用意しただけになっているお粗末っぷりには呆れます。
また序盤からあるアメリカ銃社会、連なる学校での銃撃事件。さらに車でのやり取りとアメリカ連合国(南部連合)の旗から見える人種差別。
すべて意味がない。
家に掲げられていたConfederate Flagは南北戦争の連合国側の国旗で奴隷制支持の意味合いがあるのですが、「だから何だ」ということです。
展開に何か影響しましたでしょうか。
レザー・フェイスに関してホワイトトラッシュの意味もなく、またその暴力と人種差別に何が結びつくのでしょう。
理不尽な暴力という点で、学校における銃撃事件は繋がるのかもしれません。
大虐殺の中でライラがどう行動していくのかに、ドラマを与えようという試みなのかも。
しかし間違っているメッセージにつなげられていると感じます。
それは、ライラが忌み嫌っていた銃を最後は手にしてしまうこと。否定し続けるべき暴力を自ら行うことです。
暴力によって連鎖し、また暴力が生まれるとでも言いたかったのかもしれませんが、うまくいっていません。
エルシー・フィッシャーが見たかった
あまりに中途半端でお粗末な要素の組み合わせ、オリジナルへの敬意のなさに観ていて嫌気がさしてきたのですが、私は今作をそもそも見る決め手であったエルシー・フィッシャーを最後までみるために頑張りました。
やはりボー・バーナム監督の「エイス・グレード」の素晴らしさは褪せることなく今も残ります。
注目の俳優が次のステップに何をするのか、またなぜ全くジャンルの異なるホラーという今作を選んだのかが気になったのです。
ずいぶん大人になったなという点と、ダークショートヘアーが似合ってるくらいしか感想はないですが。
総じて、オリジナルの「悪魔のいけにえ」がいかに完成されていたのかを改めて思い知らされる結果であり、より高みへ押し上げたかなと思います。
本当に興味があれば観てもいいですが、もしもレザー・フェイスを始めてみようかなというならば絶対に1974年「悪魔のいけにえ」をみてください。
というところで、今回の感想はこのくらいです。
最後読んでいただき、どうもありがとうございました。
ではまた。
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