「ミッキー17」
作品解説
- 監督:ポン・ジュノ
- 製作:デデ・ガードナー、ジェレミー・クライナー、ポン・ジュノ、チェ・ドゥホ
- 製作総指揮:ブラッド・ピット、ジェシー・アーマン、ピーター・ドッド、マリアンヌ・ジェンキンス
- 原作:エドワード・アシュトン
- 脚本:ポン・ジュノ
- 撮影:ダリウス・コンジ
- 美術:フィオナ・クロンビー
- 衣装:キャサリン・ジョージ
- 編集:ヤン・ジンモ
- 音楽:チョン・ジェイル
- 出演:ロバート・パティンソン、マーク・ラファロ、トニ・コレット、ナオミ・アッキー、アナマリア・ヴァルトロメイ、スティーヴン・ユァン 他
「パラサイト 半地下の家族」で世界的評価を受けたポン・ジュノ監督が、ロバート・パティンソンを主演に迎えて贈るSFエンタテインメント。
原作はエドワード・アシュトンによる小説「ミッキー7」で、死と再生を繰り返す“使い捨てワーカー”の男を通して、ブラックユーモアあふれる物語が展開されます。
共演には、「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」ナオミ・アッキー、「NOPE ノープ」や「ミナリ」のスティーブン・ユァン、「ヘレディタリー/継承」、「ナイフ・アウト:グラス・オニオン」などのトニ・コレット、そして「アベンジャーズ」シリーズのマーク・ラファロら。
ポン・ジュノの新作ということでかなりの注目を集めていた作品ですが、しかし実際に公開週末に映画館に行ってみると、思ったほど混んでいなかったです。今回IMAXで観に行ってきましたが、画角的にはアメリカンビスタサイズ(1:1.85)なんでそこまで意味はなかったかも。
〜あらすじ〜
人生に失敗続きの男・ミッキーは、地球からの脱出を試みて新惑星探査とそこでの植民地化計画に応募、確実に登場できる仕事”エクスペンダブル”の仕事に飛びつき、契約書の内容もろくに確認せずサインしてしまう。
だがその契約とは、横暴な権力者の命令に従い、命がけの任務に挑んでは死に、生き返ってはまた死ぬ――そんな過酷なループを繰り返すことだった。
再生を重ねながらも搾取され続けるミッキーだったが、ある日システムの手違いによって、彼のコピーが同時に現れたことから、状況は思わぬ方向へ動き出す。
ミッキーはついに、仕組まれた運命に抗うための反撃に乗り出していく。
感想レビュー/考察
ポン・ジュノらしさはしっかりあるが、全体に軽め
「俺がなぜこんなところに落ちたか。」
そんなセリフを吐く、雪の中で氷の裂け目に落っこちて横たわるロバート・パティンソン(ミッキー)ではじまる今作。
文字通り社会の底辺でどん底にいるミッキーに対して、スティーヴン・ユァン演じる友人が高みの見物を決め込む。
まさに彼はミッキーよりも社会的ステータス、地位が上だから。見下ろしながら「死ぬってどんな感じ?」と聞かれるミッキーはうまく答えられない。
この飄々とした妙な軽さと奇抜さを持ったポン・ジュノ監督の新作。結果としては彼の作品の中でもそこそこの良さといったところ。
持ち味の誰も持っていない変わり者が作った映画テイストは健在ですが、いかんせん「パラサイト 半地下の家族」が比較対象となれば厳しいのも仕方ないと思います。
原作は実はお堅め。映画化にあたってライトになって物足りなさがある
原作はエドワード・アシュトンによる「ミッキー7」。数字が10多いのはなぜかといえば、監督いわくその分たくさんミッキーを殺せるから。
そんなブラックユーモアを感じる命の軽さように、今作は全てが良くも悪くも軽い。
原作小説は科学的な考証を詰めているものですが、今作は結構雑というかそこに集中していない。
「オデッセイ」のような新惑星開拓とかSFジャンル求めるなら間違いです。
そして人間を何度もコピーして使い捨てるという部分に(議論があったことはでてきますが)、あまり生命倫理的な考察は入れないし踏み込まない。
こういった内容は「月に囚われた男」まんまですけど、やはりそっち方面に進むストーリーではないのです。
だから良くも悪くも軽い。それが好みの分かれどころ。
明らかにドナルド・トランプを意識したマーク・ラファロ演じるマーシャルも、植民地主義も、他人種との接し方も、生命倫理も社会格差も。
あれこれ盛り込んでて風呂敷広げているけど、軽めにライトに描いている。
だからちょっと物足りないと思ってしまったのは事実です。
「母なる証明」や「パラサイト 半地下の家族」のようなスモールスケールに社会的な話を盛り込んでインパクト最大にしているというより、スケール自体が大きくなっていてその分薄まった気がします。
コメディアンとして輝くロバート・パティンソン
ただ、手放しにダメだったというわけでもなくて、手堅いおもしろさはありました。
主演のロバート・パティンソン。
「トワイライト」に「ザ・バットマン」などでクールな彼も、ここではアホの子です。頭回ってるのかわからない顔して、口は開けっ放しで愚か者すぎる。でも顔がいいのでかわいくも思えてしまう。
ミッキーは何度も死にますが、先ほど言ったように今作は死をギャグにしていますし、そもそもこのエクスペンダブル(使い捨て)に同意したのはミッキー本人。
だからある意味の自業自得感も、彼が散々な目に遭って死んでいくさまを何度も見るのに罪悪感を取り払ってくれています。
底辺ぐらしでもなんとか頑張ってるミッキーの前に現れるのが、新しいミッキーであるミッキー18です。
パティンソンが結構振り切って違う演技をしていて顔つきや姿勢、所作まで違うので見分けるのは容易い。
まさかのコメディアンとしてのパティンソンが見れるのは嬉しい驚きです。
上下構造が意識された構成
ミッキーが複製されるあのマシーン。プリンターみたいに横スライドで出てきますけど、科学者に気づかれずに台から落っこちたり、生まれたてでも下へ落ちるミッキー。
彼が地球で惑星探査の旅に応募するシーンでも、大きな螺旋状の階段で人が降っている。上下を空間的に意識した構造や話が、社会格差をずっと醸し出します。
ミッキーが氷の奥底から生還し、地上の入り口へ、そして上層階に登っていく。しっかり下剋上を感じる流れが組み込まれています。
メッセージ性と寓話が先行しすぎかも
また今作は植民地主義を批判的に見る作品でもあります。
自分たちが乗り込んでおきながら、原住民(ダンゴムシみたいな生物)をエリアンと呼んで駆逐しようとする。はっきりと「私たちがエイリアンだよ」と叫ぶシーンもありますね。
また、愚かしい指導者が招く災厄も含まれます。
支持者が赤い帽子を被っているという分かりやすい描写もあり、地球では選挙で勝てずに他の星へいってリーダーになろうとしたマーシャル。
見栄っ張りであり、失言が多くそのたびにとこにいる妻に囁かれ言葉を修正する。
ここぞというところで絵的に必要だからという理由で出しゃばっていく。アホすぎるのです。
ただ植民地主義もこのトランプ批判も、やはり軽めだなと思います。なんというか記号的に感じてしまいました。
やりたいこととか言いたいことが先行していて、人物も話も手段に感じてしまうというか。うーん、ちょっと残念。
ただ、最後のほうでミッキーが見る不吉な夢は良い味です。ハッピーエンドではなくて、の夢のように最悪のリーダもまたいつかは現れるであろうこと。注意喚起的にも感じますし、このちょっと意地悪な感じが監督らしくて良かったです。
もう一人の自分との決別の仕方やサブプロットには不満
後どうしても言いたいのは、ミッキー18の顛末です。
記憶のメモリーバックアップを壊されて、完全に唯一無二の存在になったミッキー17とミッキー18。
自己とは何かというアイデンティ論は完全にすっ飛ばしているとしても、あまりに王道な自己犠牲での処理は安易に感じます。
後は今作結構長いんですが、やはり所々そんなに急用じゃないようなサブプロットも多くて、そこは正直冗長と思えました。
総合的にはポン・ジュノ監督のフィルモグラフィーの中でも、結構ライトでトライアル的な側面を感じる作品。
ロバート・パティンソンの新しい側面を見れるのも楽しかったですし、一見の価値はやはりあると言えるでしょう。
映画と関係ないですが、制作時と公開時で政治情勢も変わり、この作品と現実を比べてどちらがディストピアかと言われると悩んでしまうのが苦しいですね。
ということで今回の感想は以上。ではまた。
コメント