「メイ・ディセンバー ゆれる真実」(2023)
作品解説
- 監督:トッド・ヘインズ
- 製作:ナタリー・ポートマン、ソフィー・マス、パメラ・コフラー、クリスティーン・ベイコン、グラント・S・ジョンソン、タイラー・W・コニー、ジェシカ・エルバウム、ウィル・フェレル
- 製作総指揮:マデリン・K・ルーディン、トーマス・K・リチャーズ、リー・ブローダ、ジェフ・ライス、ジョナサン・モンテペア、サミー・バーチ、アレックス・ブラウン、トーステン・シューマッハー、クレア・テイラー
- 原案:サミー・バーチ、アレックス・メヒャニク
- 脚本:サミー・バーチ
- 撮影:クリストファー・ブロベルト
- 美術:サム・リセンコ
- 衣装:エイプリル・ネイピア
- 編集:アフォンソ・ゴンサウベス
- 音楽:マーセロ・ザーボス
- 出演:ナタリー・ポートマン、ジュリアン・ムーア、チャールズ・メルトン 他
「キャロル」や「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男」などのトッド・ヘインズ監督が送り出す、アメリカで実際に起きたスキャンダルを題材にしたサスペンスドラマ。
ナタリー・ポートマンとジュリアン・ムーアが共演しており、ナタリー・ポートマンがスキャンダルの再現映画の主演女優であるエリザベス役、ジュリアン・ムーアがエリザベスが取材することになるグレイシー役をそれぞれ演じています。
また中学生にして30代の女性と関係を持ったパートナーであるジョー役には「バッドボーイズ フォー・ライフ」やテレビシリーズ「リバーデイル」のチャールズ・メルトン。
本作は、2023年の第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品。また、第81回ゴールデングローブ賞では作品賞、主演女優賞、助演女優賞、助演男優賞にノミネートされ、第96回アカデミー賞では脚本賞にノミネート。
批評家面ではかなり高い評価を得ています。
ちなみにタイトルのメイ・ディセンバーの意味ですが、直訳では5月と12月。これはものすごく大きな歳の差カップルのことを指す慣用表現らしいです。今作の中心にあるグレイシーとジョーの二人のカップルのことですね。
元ネタにはメアリー・ケイ・ルトーノーの事件と彼女の結婚があります。メアリーは34歳の教員でしたが、13歳の教え子ヴィリ・フアラアウと関係を持ち大きなスキャンダルになったのです。ちなみにメアリーは2020年にがんで亡くなっています。
もともとはナタリー・ポートマンが監督もするような話もあったそうですが、彼女が脚本をヘインズ監督へ持ち掛け、監督からジュリアン・ムーアの起用が提案されたとか。
トッド・ヘインズ監督の新作ですし、しかもナタリー・ポートマン&ジュリアン・ムーアが今日会陰とあればかなりの期待をします。7月公開の作品の中でも楽しみな1本でした。
公開週末は連休ということもあったのか、東京の映画館はかなり満席に近い状態でした。
~あらすじ~
20年前、当時36歳の女性グレイシーは、13歳の少年ジョーと運命的な恋に落ちる。しかし、この関係は大きなスキャンダルとなり、連日タブロイド紙を賑わせた。
グレイシーは未成年と関係を持ったことで罪に問われ服役し、獄中でジョーとの間にできた子どもを出産。グレイシーの出所後、二人は結婚しする。
それから20年以上が経過し、今でも二人の関係を快く思わない人々から嫌がらせを受けることあるが、グレイシーとジョーは何事もなかったかのように幸せに過ごしている。
そんな二人を題材にした映画が製作されることになり、グレイシー役を演じるハリウッド女優のエリザベスが役作りのために彼らの取材にやってくる。
エリザベスの執拗な観察と質問により、夫婦は自らの過去と改めて向き合うことになった。そして、役になり切ろうとするエリザベスも次第に夫婦の関係に引き込まれていく。
感想レビュー/考察
スリラーでありロマンスであり、複雑多層なドラマ
トッド・ヘインズ監督の才覚は疑いのないものですが、今作はこれまた複雑でレイヤーが多く、ジャンルミックスもされている。
人によって見方が変わり、または角度を変えてみても毎回覗かせる顔が変わるような、それでいて統一されて芯のある作品でした。
OPはそれこそ「キャロル」を思い浮かべました。美しく露出高めで光が強く感じるお家の外観を捉えるカメラ。
そこに流れてくるマーセロ・ザーヴォスによる音楽は不穏で、これから殺人事件でも起きるのかのような、ミステリアスでサスペンスフルなもの。
この辺は「キャロル」でスチームが排気口から湧き出るNYCのストリートを、トレンチコートの男を追いかけるOPショットに似ています。
実際にはロマンスでしたが、社会的な批判やスリラーにも感じる要素がある「キャロル」は今作とも似ていると思いますね。
「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男」も、一人の男が戦うドラマでありつつ、実際のテフロンの行為や恩恵の裏はあまりにおぞましく完全なホラーです。
こうしたミックスがとても巧いのがヘインズ監督の好きなところ。この作品は一辺倒に描こうとすれば簡単に描ける題材だとは思いますがなそれを偏りなく様々な視点を同時に進行させ存在させられるのって純粋に驚きです。
美しいルックに深い闇が見える
何だか恐ろしい始まりで、キッチンを映すと客をもてなすための料理の準備に追われているグレイシーが見えます。
ふと息子のような男性が入ってくるとキスをする。そう、これが問題のグレイシーとジョン夫婦。
そしてそこにやってくるのがサングラスをかけて少し気取った空気をまとうエリザベス。玄関先に置かれた郵送物の小箱を手に庭へとやってくる。
その箱には”クソ”が入っていて、ここで幸せな夫婦関係と、それを許さない社会を同時に見せます。謎の送り主は別に重要ではないのですが、こういう不安な要素を孕んで、しかし視覚的には明るく美しい始まり方をする。
これから目に入る情報をそのまま信じて見ていけばいいのか、外部からの情報を入れて疑うべきなのか。
戸惑いはエリザベスと観客に共有されます。
強烈な強さを放つナタリー・ポートマン
そのエリザベスについてはナタリー・ポートマンが強烈な存在感を放ちます。最近「ソー ラブ&サンダー」で観て以来?だったので、彼女の力を忘れてました。
あの「ジャッキー ファースト・レディ最後の使命」で見せた怖いナタリーです。ジュリアード出身のハイクラス女優のエリザベスは、スキャンダラスな夫婦関係に学ぼうとする上で、踏み込みが強い。
途中で高校の演劇クラスに参加しますが、悪ふざけの質問(クラスに1人はいるおふざけ悪ガキ)に対して際どい話題を堂々と話していく。
演技の中でのセックスにいつしか境界線が曖昧になること。そして境界線なんて誰が決めるのか。当惑すること。
この回答はまるでグレイシーが分別なく境界線を越えたように聞こえ、クラスにいたグレイシーの娘を怒らせます。
曖昧な境界線を踏み越え、理解できない他者を掴もうとする
境界線の問題は一つ観客側と題材にも当てはまります。とても現代社会に向けたものを感じる。
グレイシーとジョーの関係性は確かにスキャンダラスなものですが、その正しいと誤りの判断はどのように誰が行うべきなのか。
全く関係のない部外者がやたらと首を突っ込んで批判し、消費していく様は現代のSNS界隈やネットの世界にそっくりです。エリザベスはいかに研究していっても、結局は演技であり模倣になる。当事者にはなることができないのです。
このあたりは「落下の解剖学」で示されたような他者理解の限界をテーマにしていると感じます。他人を完全には理解できない。それなのに私たちはいつも、勝手な境界線を引いたり消したりを繰り返し、絶えず踏み込み侵されていくということです。
エリザベス自身、この作品のための調査を通して多大にグレイシーとジョーの影響を受けます。
人物の配置や画面構成が相手を真っすぐに見れない様子を示す
鏡を使ったショットが多い作品ですが、はじめは娘の卒業パーティできるドレスを選ぶシーンが印象的です。
エリザベスが手始めにすこしづつ質問をし始めるシーン。
2人の会話において常にグレイシーとエリザベスの反射が鏡に映りますが、同時にグレイシーの反射はもう一つ映りこんでいる。2人のグレイシーにエリザベスが挟まれているような構図になっています。
2人はその後も鏡の前でお互いを見たりメイクをまねて映画の人物造形のために参考にしたり。
ガラス越しに相手を見るというシーンも多く、それは対象を真っすぐに見ることができていない。つまり、何か出来事や人の言葉を反射してその人を理解したり、レイヤーを挟んでしまい解像度が損なわれている様子が投影されています。
支配的で対話をしないグレイシー
ジュリアン・ムーアもナタリー・ポートマンに負けない演技と危うさで魅せていきます。正直言って毒のある存在です。
これもまた勝手な判断にはなりそうですが、彼女は捕食者の可能性が大いにありますね。精神的な不安定さでその哀れみを利用してそばにジョーを縛り付け、そしてジョーの革新的な会話では一方的に彼の方が誘ってきた側だと言う。
言い返したり対話をするような展開を封じ込めています。元の家族がいることとその関係性や、したたかさも、グレイシーへの疑いの目を強くします。
実は思い返せば、OPの庭でのパーティのシーン。エリザベスに話しかけてきたグレイシーの友人が彼女を好きな理由をこう言っています。
「彼女はいつも自分の望みを分かってる。何が欲しいのかを。」
思い返すととても示唆的というか。混乱とか倒錯なんてなく、意識をもってジョーとの関係に発展したのだと言っているように聞こえます。
幼少期を奪われ少年のままの大人
そしてジョーの方の描写も素晴らしい。彼は13歳にして36歳の女性と関係を持ち、おそらく15歳ごろにはすでに父親になっている。
今現在36歳になり、それはエリザベスと同い年。一見すると子どもたちにそり沿っている親に思えますが、年が近いゆえの理解というよりも、気を使っているようにすら思えます。
そして彼はエリザベスと曖昧な境界線を迎え、利用されるように関係を持つのですが、そこで彼の自我がいかに壊れているかが見える。
まだ幼い子どもなんです。
極めつけは屋根の上で息子と一緒にハッパをキメるシーン。ジョーは友人たちと遊び惚けたような経験もないのです。
だから息子が父親にハッパを教えてあげる。そして子どものように泣きじゃくってしまう。息子の胸を借りて泣くあの姿が、ジョーの本当の姿なのでしょう。
何かの役目を期待し、自分で勝手に納得する
グレイシーは女性としてどうなのか、大人として、既婚の身として、母親として。ジョーは学生として、男の子として、父として、夫として。
他人が見れるのはそういった役目でしかないのかもしれません。それを自分で勝手に見て勝手に判断して納得するだけ。認識と違うと叩く。
グレイシーが娘のドレス選びで、娘がノースリーブを選ぶと「勇敢ね。」と冷ややかな嫌味を言います。あれも、グレイシーからすれば娘のような”年頃の女の子”がどんな服を着るべきかという認識があるから。
彼女が世代の違いを考慮していないのは、ジョーとの関係を持ったことにもほんのり繋がっているかも。
グレイシーに同化していったからなのか、エリザベスはより支配的に。
最終幕ではやっと映画の撮影シーンになります。ペットショップでのグレイシーとジョーのシーン。数テイク撮影し、監督やクルーが「カット。良いね。」という。
しかしそこでエリザベスは「もう1回やらせて。」と言って準備に入ります。
認識が違う。これでいいって状態は人それぞれ違うんですね。
ミステリアスでスリリング、そしてロマンスとドラマまでも含みながら、決して教えることも明確に示すこともせず、観客側に受け取らせて考えさせる。
見事な脚本、音楽、撮影、俳優陣も楽しめる素晴らしい一本でした。今回は長くなりました。それではまた。
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