「ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ」(2021)
- 監督:ジョー・ライト
- 脚本:トレイシー・レッツ
- 原作:A・J・フィン
- 製作 イーライ・ブッシュ、スコット・ルーディン、アンソニー・カタガス
- 音楽:ダニー・エルフマン
- 撮影:ブリュノ・デルボネル
- 編集:ヴァレリノ・ボネッリ
- 出演:エイミー・アダムス、ジュリアン・ムーア、ゲイリー・オールドマン、フレッド・ヘッチンジャー、アンソニー・マッキー、ジェニファー・ジェイソン・リー、ワイアット・ラッセル、ライアン・タイリー・ヘンリー 他
作品概要
「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」のジョー・ライト監督が、「メッセージ」や「人生の特等席」のエイミー・アダムスを主演に送るミステリースリラー。
広場恐怖症で家から出ることのできない小児精神科カウンセラーが、ある時知り合った隣人が通り向かいの家で殺害されるのを目撃してしまうものの、その隣人は存在しないとされ、一人で真相を追います。
主人公が真相を追う家族の夫役は「ウィンストン・チャーチル」で監督と組んだゲイリー・オールドマン、また存在しないといわれる女性はジュリアン・ムーア、そして一家の息子役にはフレッド・ヘッチンジャー。
フレッド・ヘッチンジャーは「この茫漠たる荒野で」にて旅の途中で出会うちょっと鈍いのだけれど根のいい青年を演じていた人ですね。
ちなみに今作は製作の過程にカオスが起こっている作品です。
もともとはじめの撮影は早くに終わっており、2019年の時点では試写を行っていたそうなのですが、観客の反応が微妙だったことで再撮影に入り、さらにコロナ感染症の影響から公開日も再び延期するという事態が背景にあります。
その間に製作のFOXはディズニー傘下になり、配給権をNETFLIXに移したということです。
実は原作の本のほうを結構前に本屋で見かけまして、それで存在は知っていたのですが公開までこんなにもかかったので忘れていた作品。やっとこさNETFLIXで鑑賞しました。
「ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ」NETFLIX配信ページはこちら
〜あらすじ〜
児童専門の心理カウンセラーであるアナは、ある事件がきっかけで夫と別居し、今はマンハッタンの家に籠もりきりだ。
彼女は広場恐怖症を患い、玄関を開けることすらできない。アナは窓から見える向かいの家やそこの人々を觀察して過ごすようになった。
そんなある日、通り向かいの一家の息子イーサンが訪ねてきた。
イーサンと仲良くなるアナだが、イーサンの彼の父への反応から、虐待を受けているのではと疑い始める。
また別の夜、今度は見知らぬ女性と知り合うアナだが、会話からイーサンの母オリヴィアであると考えた。
一家を知るほどに夫であり父であるアリスタが家庭内暴力を振るっていると疑いが強くなり、アナは向かいの家を観察し続ける。
そしてある夜、オリヴィアがナイフで刺される現場を目撃してしまうのだった。
感想/レビュー
新鮮さも斬新さもなく古典に寄りかかる退屈さ
全体になんとも退屈で意味不明かつ荒唐無稽。楽しくないしべつに興味も引かないミステリーになってしまいました。
おそらくは製作における紆余曲折を聞いていたほうがまだ面白いのではないかというくらいです。
あまりに直接的に意識しすぎている古典的な名作への目くばせはあまりにうっとうしいですし、今作がそれらを言及していいといえるレベルにかんじられないからかややいら立ちすら感じます。
そのまま「裏窓」的な設定になっていても、あのスリリングさも楽しさもみじんも感じないですし、「白い恐怖」っぽい下地に関してもうまく機能しているとは到底思えません。
こうした名作への敬意を払うというのであれば、そのベースを利用しながらも斬新なデザインで映画を設計するとか、現代にアップデートして見せるとかすべき。しかしない。
また古典的な話としての質を高めるというのには、正直すべてがお粗末に思います。
こんなことを言ってはあれですが、これよりももっと最初の撮影時の出来栄えが悪かったというのならそれはそれで見てみたいと思うほどです。
演者はそろっています。特筆すべきは短時間の出演ながらもしっかりと存在感を示し、つかみづらい人物を見事に演じたジュリアン・ムーア。
そしてカギとなる少年イーサンを演じたフレッド・ヘッチンジャーです。
とくにフレッドは振れ幅ある点で演技の中での演技などを見せ、今後も期待される役者の一人であると証明してみせていると思います。
しかし、肝心の主人公を演じるエイミー・アダムスは「ヒルビリー・エレジー」でも感じたような空回り感というか、アナを演じるのではなくて精神疾患を抱える役を演じている女優がそこにいるとしか見えない。
ミステリーとしてはお決まりというか、都合がよすぎたり荒唐無稽な部分に対しての言い訳もなく。
なぜ近距離での刺殺において犯人の姿だけが都合良く隠れるのか。
疾患の描き方
極めつけで私が気に入らないのは広場恐怖症の描き方です。
作中ではこの恐怖症によってアナは外に出ることができずに家にいるといいます。作中では少しでも外の通りに出ようとするだけでもめまいが襲い倒れてしまうほどです。
しかし本来の広場恐怖症というのは、別に言葉通りに広い場所が怖いのではないんですよ。
逃げ場がないのだ、何かあった際に助けてもらえないのだという空間にの認識に恐怖してしまう状態またはそれに起因する、先行する、併発するパニック障害というのが正確と思います。
なので応援のない家に閉じこもる方が怖いのかもと感じてしまいますし、少なくとも通りに出るそれ自体が怖くてできないというのにはあまり説得力がありません。
仮にこの作品の中では、広い空間に出ること自体が怖いのだとしましょう。すると終盤では屋上に出れたのはなぜなのでしょうか。
疾患をベースにするのであればある程度正確に、もしくは作品内で定義してそれに忠実にいるべきなのではと思います。
数々のヒッチコックの名作、黄金期のミステリーへの敬意を払いながら何かしようとしたのでしょうけれど、散漫で無理のある組み立てをされたミステリーはその謎ではなくて脚本の意味不明さが目立ってしまいました。
中にはいい仕事をする役者もいますのでその点少しでも興味あればご鑑賞を。個人的にはヒッチコック名作を見ていたほうが健全と思います。
今回は結構酷評になってしまいましたが、最後までよんでいただきありがとうございました。
それではまた次の映画の感想で。
コメント